創立25周年記念対談

初代会長・若林駿介 VS 現会長・八板賢二郎


協会黎明期から設立まで

音響家という職能と人々

八板 音響家という自覚を持った人たちが「何かをやろう」とはじめて集まったのは、今から35年くらい前でしょうか。電気的に音を扱う分野では、レコーディングはある程度確立されていましたが、いわゆる舞台音響は全く駄目でした。

若林 東京オリンピックや大阪万博がひとつの契機でしょうね。ああいった大きなイベントで沢山の音の仕事が生まれました。そして、それぞれの世界でプロフェッショナルに音を扱う人たちがあらわれてきたわけですが、そもそも遡って考えて見ますとまず「映画」、そして「放送」、特に「ラジオ」が音響技術者のはじまりだといえるでしょうね。マイクロホンを使う仕事です。

八板 そうですね。良否はともかく、公会堂や市民会館が作られ始めた頃、ホール音響の仕事を担当していたのは放送関係者でした。当初は日本のホールには専門の音響技術者がいませんでしたし、そういう考え方もありませんでしたね。

若林 そもそも、日本古来の芸能自体が音を大きくしなければならないようなものではありませんでしたから、公会堂やホールといったものがつくられ始めても、アコースティックの時代は歌い手が「ステージで声を大きく出す」ことが一番大事でしたね。ですからホールの「音の仕事・電気音響」というのは一番音の小さいボーカルを聞こえるようにしてあげることだったんです。

八板 歌謡曲のショーであっても、ボーカル、ウッドベース、ピアノ。マイクロホンは3本あれば十分でしたね。

若林 結果として、音響を扱う人が一番育っていったのが「ラジオ」でした。やがて彼らが音のプロであるという自覚を持つようになってきたときに、いろいろな人と交流して相互に情報交換して啓蒙して、技術を向上させたい。そんな気運がでてきたように思います。

八板 やがて大阪万博、30年前ですか。あの時期から音響の環境は非常に変わってきました。コンサートでもどんどん大きな音を出すようになってきて、そのための機器もどんどん作られ始めた。

若林 大阪万博というのは、電気音響を積極的に使おうとしていましたね。私は鉄鋼館で、設備からいろいろとつくりました。海外からミュージシャンを呼んで、彼らがそこに機材を持ち込む。彼らの持ち込んだ大パワーの機材と音量によって一気に日本の電気音響が変わってきたわけです。そこから普及したというわけですね。

 ▲若林駿介名誉会長

八板 音響の分野はひとつの分岐点になりました。その前の東京オリンピックでカラーテレビが普及したわけですが、当時私は学生で、開会式の会場でカメラのアシスタントをやっていました。そういう、世界的なイベントによって日本のメディアが変わってきたわけです。万博はプロのサウンドという意味で大きな転機になりました。

若林 それぞれが独特のパビリオンを作り、そのためのサウンドを設計して音を出す。今から考えますと決して満足のいくものではありませんでしたが、その演出や設備がそれぞれとても個性的でしたし、各国のめずらしい、しかも最先端の技術はなかなか魅力的なものでした。その後、各自治体が集会場である多目的ホールを作っていったということでしょうね。

八板 それまでの音響では、芝居の効果屋さんが主体になっていましたね。彼らが今から考えますととてもプアーな機材で(笑)、僕もやっていましたが、そういう技術で一生懸命いろいろな音を創っていたわけです。万博で大音量のPAが生まれ、そこでPAという仕事が注目されだした。機材を買い込んで山積みにすれば、それがお金になるというひとつの流れが出てきたわけです。芝居の効果をやっていた会社までがPA部門を設けた時代ですね。芝居屋さんまでがPAに向かった時代であったといえますね。
やがて、そういう人たちがPAから去って、多くのPA会社が淘汰され、効果屋さんとPA屋さんという二つの大きな業界の誕生につながったわけです。25年前でしょうか。

若林 いわゆる音圧時代でしょうね。音楽を大きな音で出そう。「とにかく音量を!」という時代が続きまして、ビートルズの来日などがあった。やがてマイクによって音の表情を出そうというような質の時代が来ることになるのですね…。

八板 いろいろな意味で過渡期であったといえるでしょう。まずは大音量を出そう。音質はまだ二の次という時代でしたね。
その頃に、音響家協会の前身となる集まりが30人くらいでスタートしました。

若林 「音」のプロであれば誰でも良いということで、学者や研究者から音楽家、建築音響家、マイク・スピーカなど電気音響のハードを作る人、設備する人、それをオペレートする人など、音を仕事にするプロが広く自由に集まって啓蒙していこうという集まりが出来たんですね。そこにはもうひとつ目標がありました。当時は周りの音がとてもひどい状況にあったんです。街を歩くととてもノイジーで、思いあがりかも知れないけれど、あのときの僕らには日本の音をなんとか良くしようという気持ちがあった。そのためにはPAやホールだけではなくて、各分野の人が集まる必要があったんですね。音が出るまでのしくみ。音を出す人。それまではそういう一連の人たちの縦のつながりがなかったのですが、あえて、集まることでより良い音環境を創りたい…、と。

八板 みんな現役で、それぞれ仕事がとても忙しい時期ですが、だからこそお互いの仕事を理解し合おうという時期にきていました。籠に乗る人、担ぐ人。ということで、草鞋を作る人も大切ですから、いいスピーカを作る人がいないと、音響家は良い仕事を出来ないなあということも考えたんですね。

若林 音の仕事を本気で極めていくためには、ほかの分野の事も勉強しないと。そうして異業種の人たちと集まって話してみますと、実は皆同じことを目標にしていたわけで、音が悪いのは誰のせいかなんて、話してみないと分からないものなんですね。皆で会話をしてみますと根本は一致しているのですが、自分の職業に夢中になると全体が見えなくなってくるんですね。

八板 最初の時点から、すべて個人会員であるという大きな方針はつらぬいてきました

八板賢二郎会長

若林 これには相当ディスカッションを重ねました。もちろん企業や同業者の集まりではないし、連盟でもない。そして組合でもない。われわれは、音を職業とした人たちの親睦であり、お互いに話せる場をつくろう。技術の向上のために勉強しよう。そういう団体のためには個人参加が欠かせないということになったんですね。

八板 日本人というのは常に企業という看板を背負っていますから、自分のポケットから協会費を出すという習慣はあまりなかった頃です。個人会員の協会というのは、そこがとても負担で、協会の役員会に会社の部下を代理として行かせるようなことはできません。

若林 今でこそ生涯雇用とか、会社に一生をささげるという風潮はなくなってきましたが、当時は会社や自治体などの組織が主人公でした。しかし、技術というのは個人のものであって、自分自分をで磨くものなんですね。お互いに個人名でやる。社会人の集まりというのは「A社さん」とか「B社さん」という会社の名前ではなくて、「山田さん」とか、「八板さん」っていうようにすると、親密度がまったく違うし、本音が出てくる。

八板 セミナーの仕込みをしていてもそうですが、個人名どころか、ニックネームで呼びあったり。会社の垣根があると自由闊達な意見交換も出来ませんが、そういう呼び方で進めますと本音でざっくばらんな話が出来るんですね。
そうした、垣根を越えたゆるやかな組織が出来た後、大音量撲滅運動(笑)というようなのをやりました。音楽家やプロデューサーを集めて、「いまのような炸裂する音量だけで良いのか」というシンポジウムをやったりもしました。もしかすると、われわれは当時、相当、煙たがられていたかもしれませんよ(笑)。

若林 そうだと思う、でも将来を考えた。

  

協会の活動

より良い音場と仕事をめざして

八板 ホール協会が90db以上を出したら電源を切る、という方針を出したことがありましたね。大音量を規制するというひとつの流れなんですが、先のシンポジウムとは逆に、そういうことにわれわれは反論したわけです。パワーメーターで測定するだけでは音の善しあしは決められないですよ、と…。

若林 良い音であればピークで音を出していてもうるさくありません。音が大きい、うるさいというのはいい音ではないからそう聞こえるだけで、いい音がしているなあというコンサートを測定してみると95dbを軽く超えているような音は珍しくないんです。

八板 良いバランスの音は大音量でも騒々しくない。逆に大音響を出さなくてもいい音はある。バランスのいい音は大音量でなくても迫力がありますよ。

若林 そういった音の真髄をを互いに認識しようというのが音響家協会なんですね。もちろん、いい音を作るにはいいスピーカが必要ですし、いいアンプも要る。もちろん良いミクシングも必要ですし、なによりも音源である音楽家にすばらしい音を出してもらい、それを包み込む優れた建築空間・音場が要る。どこが欠けてもだめなんですね。そのために各分野の人たちには責任があり、技術が向上する必要もある。そうしたことは単独ではだめで、そこで音響家というひとつの新しい括りを「個人」という枠組みで作りたかったんです。

八板 単に音を売る「音屋」ではなく、音を「作品」としてとらえる、という考え方なのですね。そのためには誰もが聴覚心理から建築音響まで知る必要があるんですね。そういう枠組みで集まってみると、自分たちがやろうとするセミナーの講師というのは全部協会内にいるんですね。そのくらい幅広い人材が集まっています。そうした人たちで、時代のニーズに合わせ、ひとつの大きな流れの中でセミナーを開き、雑誌を作ってきたわけです。

若林 そういう意味では「Sound A & T」この雑誌。これは協会の実績であり、協会の「顔」を表現しているといえますね。その時代その時代で各分野の人たちがきちんとものを言っている。
いわゆる「個人団体」で雑誌をつくろうとすると、たいていの場合、25年も続かなくて途中で休刊になったり合併号になったり、廃刊されたりね。そういう意味では一号も欠かすことなく雑誌を作り続けてきたというのは私たちの活動の柱になっているといえますね。

八板 雑誌「Sound A & T」は企業の方から広告料をいただいていますが、私たちの雑誌は「金儲けをする」ために作っているわけではないので、広告料もぎりぎりでいい。そういう趣旨でいただいています。この不景気の中で、広告料を頂戴するのも大変ですが、相互の助け合いというご理解をいただければと思っています。
音響家協会は、会員から集める年会費と雑誌の広告費とで運営していますが、ボランティア精神あふれる沢山の会員の協力でとても良い形で成り立っていますね。会費を収めている方に、協会の仕事のことで手厳しい指示をするのはとても心苦しいことですが、それがとても良い社会勉強になる。しかし、ここ協会の仕事を第一にするのではなく、まず家庭第一、そして職場を第二、三番目くらいに協会を持ってきて欲しいものですね(笑)。

若林 機関紙もそうですが、「プロ音響データブック」、あの原稿をそれぞれプロの方から集めるのも大変だろうけれど、各分野ライターも揃っている。あれも大変評判が良いようですね。

八板 会員みんなの力で完成させたものですね。既に三訂版になりました。

  

協会の活動

技能認定講座の実践

八板 その他、技能認定講座を10年くらい前からはじめましたが、あれもはじめはコピー3枚くらいのテキストからはじめて、その後、今のような教科書を使うようになりました。このような講座というのは、普通持ち回りで順番に講師をやって、それぞれの科目の繋がりが無く、独演会のようなかたちになりがちなんですが、この講座は現場の知識を正確にきちんと伝えようということで、ひとつの流れを作っています。教科書も毎回改訂してきました。ここでの講義は「音とは何か」ではなく、「芸能とは何か」ということから始めます(笑)。
専門学校で、入学してきた学生に何でもいいからまず演奏会のPAをさせてみる。彼らには音響の知識なんてまったくありませんから、ステージは目茶目茶になる。でもそれでいいんです。実際にやってみて、「じゃあ、どうすればもっといい音、良いステージになるんだろう」そういう疑問を持ったところで、建築音響から心理音響まで広い知識や技術に興味を持ってもらうことが必要なんですね。

若林 教育には二つのもっていき方がある。一つは知識はなくても、まず実際にやらせてみて失敗もさせ、「あれ、どうしたら良いんだろう」と理論に振り返ってみる方法。もう一つのもっていき方ははじめに知識ありきで理論を学んでその後それに基づいて実習させる。音響家協会の講座の場合は、まず実践をというのがいいでしょうね。どちらのもっていき方にも良いところはありますが、オペレータになりたい人も多いわけですから。

八板 音響家協会の場合は、実践中心ですね。特に技能認定講座の場合は、すでに経験した方たちに教えることになるのですが、この場合、講義の入り方というのが学生とはまったく違うんですね。自分で受講料を払って、具体的に自分が本当に聞きたいこと、知りたいことがある人たちに向かって講義するのはとてもやりやすいんです。これからは講師も育てていこうと思っています。技能認定講座は、いわば職場の先輩が後輩にノウハウを教えるような形です。教科書もそういうつくりになっています。いい先輩と後輩。そういう環境をつくろうと考えています。

若林 学校とは違うでしょうね。これが協会の大きな特徴であり、いい活動ですよね。

八板 実際、講座受講を機会に協会に入会する人が多くなりました。技能認定講座がスタートする前の西日本支部の会員はわずか50人くらいだったのですが、講座をやるようになってから毎回会員が増え、今では140人を越えています。また、実際に講座をやる場合に、運営している支部のスタッフの人たちが非会員の受講者を「よそ者」扱いをしないで、仲間として対応しているというのも、いいのでしょうね。

若林 それが音響家協会のポリシーですよ。音響に携わる人はみんなプロなんだから。で、先輩後輩なんですよね。

八板 仕事をしていて、一番欲しいのはお金ではなくて、いい仲間と良い交流です。

若林 良い仲間がいることで、またそこで実際にいろんなことに携わること、例えば会社でいやなことがあってもそれを忘れられるとか、技術でそれを乗り越えられるというか、そういう声はよく耳にしていますね。

八板 実は私もそうなんですよ。会員からのメールで「良いニュース」が飛び込んでくると、本当にやる気が出ます。

若林 お互いに気心知れる、というのは大切ですよね。音を扱う仕事というのは、とかく篭りがちになりやすい。一応遮断され、隔離された調整室で仕事しますしね。結果的に人付き合いが少なくなりますし、もともと付き合いが下手なんですね。ですから、公共ホールに仕事に行っても、舞台や照明の係りの人は楽屋やステージに出てきても、音響担当者は一日中調整室に居て出てこなかったりするんです。

八板 知り合いの舞台監督が言っていたことですが、音響のオペレータさんは客席の真ん中にPA卓を置いて一日中そこから動かないことが多いらしい。何で楽屋に行って他のスタッフと交流しないんだろうと…。

若林 もちろん人にもよるんでしょうけれどもね。

  

全国に広がる会員の輪

中央集権ではない、各地の個性を活かした運営

八板 メールの普及という、インフラの変化や整備によって、最近、音響家協会の全国的な広がりは大きく、また活発になってきましたね。

若林 一昔前は東京と地方との意識や格差がありすぎて、創立当時、例えば名古屋で会員を集めるのも大変だったように記憶していますが。

八板 長い間日本全体で、東京に支配されるのはいやだけれども、東京にすがらないといけないという状況がありましたね。その時代がずっと続いている間、音響家協会は全国にいろんな仕掛けをしてきました。一緒にお酒を飲んだりね。そうして仲間に入っていくと、少しずつ垣根のようなものが取れていくんですが、それでもやはり「中央は」という意識がどこかにありました。それが完全になくなってきたのはインターネットの普及でしょうね。インターネットの基地というのは全国どこでもかまわない。
どこからでも情報が発信できて、しかもみんなが平等だから、協会のオフィスが都心にある必要もないわけですね。どこからでも全世界に情報が発信できる。今、音響家協会の事務所は府中市にありますが、インターネット時代では、そこは単なる情報センターであって、そこに事務員がいるわけではない。コンピュータが事務所で、ホームページが書類のロッカーなのです。ただ、本当の意味での人との繋がりというのはインターネットやメールだけでは保つことが出来ません。最終的には電話だったり、生身のコミュニケーションであったり、あるいはお酒を飲んで一緒に騒ぐというのが一番大事です。
もうひとつ音響家協会の運営で面白いのは、各支部で非常に個性的な活動が展開されているということでしょうね。画一的でない。西日本はジャズの勉強に力を入れていますよね。北海道支部は高校生やアマチュアに積極的に音響技術を教えている、そして名古屋ではというように…。それぞれが特徴ある活動を展開していて、各々自信を持っていけばよいのではないかなと思います。

若林 今まで、東京、東京と言われすぎてきました。

八板 今、中部支部と西日本支部が共同で活動を始めています。今度、三重でビギナーズコースを開催するのですが、そこに西日本が応援に行く。また特定非営利法人に関するヒヤリングを西日本がやるときには名古屋から講師が行く。そういう支部同士の交流というのがとてもいいですね。
技能認定講座についても、東京から講師が行くのではなくて、今、各支部でどんどん講師を育てていっていますから、全国どこでも支部が同レベルの講座を展開できる、そのように変わっていっていますね。

  

資格制度について

八板 音響家協会の資格制度というのは、資格を取ったからどうだ、という性質のものではありません。これはステータスのひとつです。日本はもともとユニオンが育ちにくい土壌ですし、ユニオンはアメリカのような国でないと成り立たないでしょうね。

若林 アメリカのユニオンは仕事を守るという意味で、良い部分もあるでしょうが、問題もあるし、そのままでは今の日本にはそぐわないですね。

八板 音響家協会の技能認定は、いわば音響創造者の「英検」みたいなものとして捉えていただければと思います。自分の技術レベルを知る、自分の評価を得るということですよね。

若林 技術向上のための目標にしてもらえればいい。

八板 資格によって就労を規制するようなものであってはいけないと思います。そもそも創造活動というのはプロでなくても誰でもやっていいものなんですよね。

若林 音響家協会はプロの個人の協会。そのなかで自分のためのレベル判定。そういうものがいつも必要です。

八板 音響家協会は個人でやる、個人のレベル向上のためにある団体だから、これまで何処からも補助金のようなものはいただいていません。これからも貰わないほうが良いと思います。人のフトコロをあてにしていては自立できません。今回、25周年記念パーティーはやめました。ご祝儀をあてにしてパーティーを催す時代ではないという協会の姿勢を示したかったからです。

   

日本音響家協会のこれから

いつまでも、みんなが運営委員の気持ちで活動

若林 協会の将来については、私からとやかく言うことは特にありません。むしろ若い人たちにやりたいこと、向かいたい方向をどんどん示していって欲しいと考えています。世の中どんどん変わっていますし、時代も流れていますから、今回お話している協会の設立趣旨を頭において、あとは自由にやっていただいていいんじゃないかと思います。

八板 若林さんには音響家協会を設立した際に、初代会長をお願いしたんです。若林さんは当時とても売れっ子のサウンド・デザイナーで、私にとっては雲の上の人という存在だったんですね。でも、こういう活動をやりたい。こんな組織を作りたいということで、手紙を書いたんです。そうしたところすぐに返事が来て、趣旨を理解していただき「いいよ」と、直ぐにも引き受けてくださったんです。そうして出来た組織を「みんなが運営委員」という気持ちで動かしてきましたね。

若林 当時、誰かがやらなければいけなかった。それで私がスタートのきっかけをつくりました。今後も会員一人一人は運営委員であってもなくても、皆が運営委員の気持ちでいて欲しい。その気持ちは大切にして欲しいですね。また事業者団体ではありませんから営利を目的としない。自由に意見できる組織であり続けて欲しいと思います。

八板 そういう意味で、特定非営利法人などは私たちの協会に向いているのかなと考えています。法人化には二つの大きな目的があると思います。ひとつは全国各支部でいろいろな活動を展開するときに、会員の方にいろいろなお手伝いをお願いすることがある、そういう人がきちんと評価されたい。そして、もうひとつはわれわれ協会で25年かかってプロ同士で積み上げてきた知識や技術を広く一般の人にも伝えていきたい、そして子供たちの創造活動を支援する活動を始めています。たとえば、高砂高校のジャズハンド部の協力でジャズ音響についての講習会をやっています。そして、そのお返しにコンサートの音響を支援していますが、それが非常にいい成果を生み始めているんですね。彼ら(彼女ら)は3年で卒業していきますから、毎年次々と生徒が変わっていくんですが、彼らはあの場で「プロはすごい」「プロ音響はすごい」ということを経験しているんですね。彼らが将来プロのミュージシャンやプロ音響家になるかというと、そうではありません。あと10年、20年たったときに子供を連れてコンサートに来てくれます。多くの子供たちが大人になってから、音響家は素晴らしい仕事をしているんだと認識してくれれば良いわけです。そういう意味でこれから、各地方で「高校生のための演劇教室」なども沢山やっていこうと考えています。

若林 子供たちを感動させて目覚めさせるというのは、プロの音響家としての大切なつとめだと思います。小さい頃感動したことって、一生忘れないものですよね。

八板 今、考えているのは子供たちや市民団体がコンサートなどをするときに、ホール側との打合せにプロが立ち会って円滑な打合せができるようなことも考えています。そういう活動をするときには任意団体ではなく、法人格を持ったほうが有利でしょうね。民が指導して官がついてくるような時代になった今、民がパブリックとなり、いろいろな仕事を出来るようになればいいなと思います。
コンピュータがこれだけ普及した今、殊、音響という分野ではプロとアマチュアの差が非常に分かりにくくなっています。パソコンとソフトがあれば、誰でもが音楽を簡単に作って、編集することができます。ビデオ編集だって簡単に出来るから、あとは発想が素晴らしければ、いわゆる「プロっぽい」作品は簡単に作ることが出来るんですね。NHKのみんなのうたのアニメのいくつかは、学生が作っているようですよ。そうした中で、プロがプロとしての実力を発揮していくのは大変ですよ。アマチュアが沢山いる部門は、スポーツでも芸能でも成長しますよ。

  

日本の音は変わったか

若林 振り返って25年。協会を始めた当初にうるさかった「日本の音」はずいぶん静かになりました。また音響分野全体には非常にレベルが上がったなあと感じています。たとえば音響デザイナーという職業も確立されてきましたし、それ自体はすごくよいことだと思います。ただその一方で、個性がなくなったなと感じることもありますね。そのあたりに注意したいですね。

八板 音響の仕込をする会社と、音響デザインをする会社がはっきり分かれてきましたし、フリーで活躍する音響デザイナーも多くなってきましたから。

若林 私は長い間フリーで仕事をしていました。いろいろと苦労もありましたがここへ来て、やっとフリーの音響家が活動できるようになったなあと思います。右肩上がりの時代でもなくなったし、これからはますます個人で活躍する人が増えるでしょうし、そうした中で個人で参加する日本音響家協会の存在は大きくなっていくと思います。しかし、個人というのは責任も自分でという厳しさがあります。
みんなが自由に大きな声を出してディスカッションを重ねて、実力を出して良い仕事を出来る時代になってきたかもしれませんね。世の中がある意味成熟してきたといえるかもしれません。

八板 機械がよくなるにつれて、音響家が機械に頼るようになると音響家の感性が低下することもあります。最近、不景気なため制作予算の削除で、機材をホールに持ち込む余裕がなくなってしまったため、ホールの既存設備がどんどん使われるようになってきています。そうすると、音響家というのはホールに今ある設備を使って仕事が出来ないと喰っていけない。本当の意味で実力を試される時代になったと言えるでしょうね。

若林 感性というものは研き続けなければいけません。最近は不景気で機材の競争ではなくなりましたが、景気不景気を問わず、本当のプロというのは機材の能力を最大限引き出せる人のことを指しています。最高の音を出してこそプロですよね。

八板 ジャズ録音の及川さんなんか本当にそうですよね。「あれっ?これしかマイク使っていないの?」ということはよくありますよ。それでいて素晴らしい音を創る。びわ湖ホールの小野さんはオペラを熟知して、オペラの音響デザインで活躍しています。音響家協会会員の活躍が、あちこちで聞かれるようになりました。そういう人たちの集団こそ、プロの集団です。

若林 能力主義ということですよ。厳しいけれどもね。


【2002年4月16日国立能楽堂 文責:青池佳子】