インタビュー 30周年が過ぎて思うこと

日本音響家協会会長 八板賢二郎

聞き手 深尾康史(副会長)


深尾康史 八板会長に協会の30年間を振り返り、未来を語っていただく機会が持てました。よろしくお願いいたします。お会いすると、いつも元気をいただくばかりで恐縮ですが、元気でいる秘訣は何でしょうか。

八板賢二郎 悩まないこと、よく眠ること、楽しくお酒を飲むこと、愚痴をいわないこと、医者に掛からないこと、そして全国各地の元気な会員とお会いするたびに元気をいただいています。

深尾 楽しいことばかりで、元気になるんですね。それでは早速ですが、設立時のメンバーはどのような方々でしたか。

八板 元劇団四季の吉田卓司さん、元越路吹雪リサイタルの舞台監督の高橋仁さん、新宿コマの野田幸一さん、御園座の田嶋光義さん、NHKの桜田研三さんと栗原信義さん、そして若林駿介さんなどです。みなさん私の年上ばかりでして、いろいろとご指導、ご鞭撻をいただきました。手厳しい忠告もたくさんありました。

深尾 時代を築かれた方たちですね。集まった目的や目標とされたことはなんでしたか。

八板 赤提灯で愚痴を言っているのは嫌いでしたから、前向きな話をする人たちと呑みました。30歳代は毎日のように朝方まで飲んでいましたから、音楽家や芸能プロの人たちまで交流範囲が広がっていきました。そういうわけで、自分たちだけで話し合っていたのでは埒が明かない、違う意見も素直に聞かないと大きくなれないということで、音響の職場も広範な人たちと交流をしないと確立できないと思ったわけです。

深尾 未来を語る、飲みニュケーションから輪が広がり、音響の草分け団体が発足したようですね。

八板 他にも団体はありましたが、それらはPAだけとか、芝居の音響だけとかセクト的だったので、私たちは垣根を越えた交流を目指しました。放送も映画もレコードの人たちともです。また、私たちの周辺では劇場やホールの職員、つまり小屋付きを蔑視する風潮があり、小屋付きの私たちは蚊帳の外でした。また、新劇、商業演劇、劇場の音屋の仲が悪かったので、同じ土俵でお付き合いできる環境作りを目指したのです。「良い環境でいい音を」というスローガンの「環境」とは、そのことが含まれているんですよ。

深尾 音響創成期に理想に燃えて集まって皆さんは、若かったんでしょうね。

八板 私は31歳、若かったので突っ走りました。邪魔をされたり、足を引っ張られたりする度に、どんどん強くなりました。体力と気力はありましたから。当時の写真を見るとみんな明るく、目が輝いているでしょ。

深尾 突っ走っておられたころに奥様は、おられたのですか。

八板 子供も二人いましたよ。

深尾 理想に燃えた精力的な活動は公私共に、ご家族に苦労をかけておられませんでしたか。

八板 何か生きがいのあることをやるという約束で結婚しましたから、苦労したけど楽しかったのではないでしょうか。今でも変わりませんが。子供たちとは、そのような約束をしていませんから、遊んでもらえなくて寂しい思いをしたようで、そのことを小学校の作文に書いていましたね。機関誌や音響家手帳の発送を手伝ってくれましたけど、いや、無理に手伝わせたのかな。今は孫が手伝ってくれてます。ご褒美はマックのチーズバーガーです。

深尾 また、協会の運営方針も一貫して、ぶれなかったことが良かったのでしょうね。

八板 修正は構わないが、ぶれてはいけません。そして、事業は多くの会員の顔を思い浮かべながら計画し、実行すべきです。私利が見えたらアウトです。私たちのような団体はボランティアが基本で、ただ達成感が利益です。 

深尾 話を音響に戻しますが、その頃の音響環境はどうでしたか。

八板 よく途切れるワイヤレスマイク、すぐに飛ぶパワーアンプ、このようなプアーな機材で苦労させられ、技術者の腕前が資本でした。仕事場である国立劇場のアンプとスピーカは40ワットでしたが、その当時、それが先端技術でした。また、そのころの音響理論は間違っていました。それを正そうとしたのも音響家協会です。技術セミナーの会場で、建築音響の大家と丁々発止やりましたよ。そのセミナーの翌日には、建築中の設備の音響設計変更の会議が開かれるなど、大きな影響を与えてきました。

でも、そのころはプロの音響技術者が少ないので、ギャラは良かったですよ。本当に能力があるプロでないと仕事になりませんでしたからね。悪い機材は、良い技術者でないと使いこなせないわけです。

深尾 当時の機器の様子が見えてくるようです。その頃から環境に埋もれず疑問を持って、音響原理の探求をされてこられたんですね。で、その頃のPA現場は、マイク1本の拡声でしょうか。

八板 基本的にボーカルだけです。「労音」の仕事で双子の歌手、ザ・ピーナッツをやりましたが、マネージャから「D-24を2本ね」と言われました。D-24はAKGので、当時の流行マイクロホンです。本番当日のリハーサルで、ベース弾きがマイクくれというので、ベロシティーのDX-77を立ててあげました。そのころはウッドベースです。ピアノも立てたかな。機材は全部ホールの設備で、はね返りを使う発想はなかった。

深尾 D-24はデリケートで、すぐ壊れる高価なマイクだったことを思い出しまた。まだ、はね返り(FB)がなかったのですね。そんな環境の中でSRの改善をしていこうと考えながら、鳥笛や犬の鳴き声までやって、技を必要とされた効果音を大切に受けついでおられましたね。

「D-24」

八板 テレビマンを目指していた私は、歌舞伎の世界に入って戸惑いました。それまで役者のお弟子さんたちがやっていた擬音効果の仕事を、私たちがやることにしたのだから一大事。毎日特訓です。でも出来るようになったときの嬉しさは今でも覚えています。歌舞伎の音響の確立は30年かかりました。あるとき稽古場で、市川団十郎さんが「この音だれがやるの、音響さん?」とおっしゃったとき、シメタと思いました。「音響」と呼んでくれたのですから。今年(2008年)の11月の歌舞伎公演でカーテンコールがありまして、そこで松本幸四郎さんが裏方を褒めていたのですが、音響・照明・大道具と言っていました。音響が入っていました。こんなこと昔はなかった。歌舞伎の世界でも音響の地位が確立できたのですよ。

歌舞伎のセリフのSRも、はじめは多方面からこっぴどく叩かれましたが、現在は文句を言う人はいないようです。だから、オペラで頑張っている「びわ湖ホール」の小野さんのご苦労もわかります。頑張って欲しいです。

深尾 擬音効果の修業、そして「音響さん」と言われた喜びのシーンはドラマになりそうですね。そのような周辺の理解が得られない状態で、双方の立場を理解したうえでSRの改革を始められたのですが、振り返ってみて、擬音効果が電気効果音に変化していったのは、いつごろでしたか。

八板 新劇の世界では、昭和25年(1950)頃からテーブレコーダでやっていたようです。録音ネタの出所は同じようで、どこでも同じ音が出ていましたね。私の上司はオリジナル作成に力を入れていたので、よく手伝いました。スタジオに篭って朝まで録音です。昼は本番、夜は録音製作。これが身について、何でも作ってしまう音屋になれました。今では、歌舞伎でも録音を使うことが多くなりましたよ。新作になると録音の効果音が多くなります。面白い話があります。尾上菊五郎さんが早変わりで、衣裳替えの最中にセリフがあるのです。それを録音でやるということになり、初日の早朝スタジオで録音の準備をしていたのですが、二日酔いで声がかすれていて駄目なんです。そしたら「今日は生でやるよ」とわれたので、小型スピーカを大道具の中に仕込んでSRをしたのですが、結局、千秋楽まで生で通しました。

深尾 まだ録音が大変な時代に、オリジナルの効果音の創作をされていたんですか。創らないと音が無い、必要は生みの母ですね。今では音源再生はできても、録音、音源製作をできる人が激減したように思います。生音源と融合させて進化してきたSRが、大音量のSR時代へと変革したのはどの辺の時代ですか。

八板 大阪万博からです。それまでは大音量を出せる機材がないのですから不可能です。万博以後、大音量だせる機材が輸入されてきてからです。それ以前、東京体育館でベルギーの20世紀バレエ団の公演を録音テープでやったときなどは、40ワットのスピーカ2台でした。ミッチーミラー合唱団が来日して、置いていった物でした。後に、シュアーの棺桶のようなスピーカが輸入されてから大音量の競争が激化しました。そのころ私も、個人的にシュアーのボーカルマスターを4本持っていました。ザ・タイガースの解散コンサートは武道館で行われましたが、ボーカルマスター8本でした。

「SHURE ボーカルマスター」

深尾 音の万博と言われた70年万博がSRの幕開けで、あの重いボーカルマスターの棺桶ゾイレを個人で持っておられましたか。その頃、SRカンパニーは何社ありましたか。

八板 本格的なのは「音研」と「タチバナ音響」だったと思います。それまでは劇場の電気室の人がやっていました。万博以後は、これは儲かるぞとなって、雨後の筍のようにPA会社ができました。芝居の効果音の会社まで、営業部を設けて機材を買い込んでPA業を始めていました。

深尾 私の知り合いがPA会社を創業したときは、フリーター(趣味)扱いされて、銀行の融資が受けられなかったと聞きましたが。

八板 芝居の音響も同じです。会社は名称とか仕事の内容で評価されるのではなく、利益をどれだけ上げたかが評価の対象になるので、その実績がないと銀行からは相手にされないのでしょうね。ほとんどの人が、そのうち良い業界になると夢を抱いて無理をしていたのではないでしょうか。それでは駄目だと思いました。

俺だけは儲けてやるとチャレンジしないと、いつまでもそのままです。チャレンジャーは自社ビルを建てています。儲けて、その金で好きなことをやるという心構えが必要です。趣味のような気持ちでやっていては、いつまでも遊びの領域で終わってしまいます。

深尾 音響創成期の話は尽きないのですが、協会の歴史に話を戻します。故若林さんが初代会長でしたが、その頃はどのような役割をされていたんですか。

八板 矢面に立つのが副会長の私の役目でした。会長に傷をつけてはいけませんからね。若林会長は協会の進路が逸れないように見張る役でした。

深尾 八板さんが会長になられたのは10周年でしたか20周年でしたか。

八板 10周年以後です。もうそろそろ、どなたか手を上げていただきたい。

深尾 長年の会長職お疲れ様です。30年の協会の歴史を語る上で、プロ向けの音響出版物がない設立当時に、本やCDを出し、続けてこられたことは特出すべきことです。今ではバイブルとなった本もあります。執筆や編集のお話をいただけますか。

八板 私は国語や歴史は苦手な技術者ですから、文章を書くのも苦手でした。兼六館出版の雑誌「放送技術」の浦野編集長とお会いして、連載記事を書かされ、そこで執筆の勉強をさせていただきました。酒を酌み交わしながら、いろいろなことを教えていただきました。プロ音響データブックは、会員の七原秀夫さんが芝居の用語を書いて来て、これで用語集を作れと言われましたので、そこに多方面の用語を加えたのです。夜なべをして3年掛りました。ワープロもない時代で、消しゴムの屑は山のようになっていました。結局、出版まで7年掛かりました。

また、協会を始めた頃から専門学校で教えていたので、少しずつその教科書を厚くしていきました。教えながら、子供たちが理解しやすい指導法を学びました。そこでは、初心者には教え過ぎないということに気付きました。入力インピーダンスも入力レベルも異なる子供たちに、プロの言葉で解いてもわかるはずがないということです。講師の手柄話も、講師本人だけが喜んでいるだけで、子供たちには失敗談のほうが身になるのですよ。後で知ったのですが、このようなことは能の創始者である世阿弥の教書「風姿花伝」にも書いてありました。

深尾 「初心者には教え過ぎない」、深いですね。

八板 レコードも出版しました。歌舞伎の拍子木(柝)のレコードです。仮名手本忠臣蔵の序幕の柝は47打って幕を開けます。非常に難しいので、その名人の柝を保存としようと、CBSソニーと共同で製作しました。制作費が足らないので、仲間とアルバイトをして、そのギャラを充てました。CBCソニーのデジタル録音の一号で、後にCDで出版しました。

深尾 話は飛びますが設立当初、東京都心に事務所がありましたが、郵便アドレスとしての仮想オフィスにされたのは八板会長でしたね。どうしてでしょうか。

八板 協会ができると、みんなの集まる場所が欲しいという意見が必ず出てきます。サロンを作ろうとかね。ところが、そのような運営は難しく、すぐに寂れるのが常です。私たちの団体は事務所で作業するようなことはありませんから、郵便の私書函のような形で十分です。そこで若林会長のお勧めで代々木にある「東京オーディオミュージックレコード」に郵便受けを作ってもらいました。社長の三宅正孝さんが親身になって協力してくれました。

深尾 そんなオープンな協会運営環境の中で、20周年からでしょうか、今のようなコンピューターネットによる運営に移行し始めましたが、それはどうしてですか。

八板 いつごろからかなあ、保険会社やコンピュータ関連会社が都心を離れ、郊外や地方に移転しはじめました。また、地方で起業して日本を制覇する企業もいくつかありました。パソコンソフトのATOKとかもそうでしたね。阿波徳島にあったのでA・TOKです。今ではNTTの請求書の差出元は地方になっているでしょ。事務所は都心にある必要がないのです。インターネット通信を使えば手間も旅費も事務諸費も少しで済むわけです。会員との交流のために事務所は不要です。そんなの居酒屋でやればよい。本協会は、パソコンの中が資料庫であってデータ室であり、ホームページが事務所です。ホームページを開けば、公開書類が見られるということです。年間500万円程度の予算は、事務所費と事務員の人件費でなくなります。現在、事務所費ゼロ、事務員給料ゼロで、会費の半分は支部に配分して、数多くのイベントができています。そのかわり支部にも機関紙の編集などの作業を割り振っています。事務局に事務員はいませんから、会報などの発送は印刷所にお願いしています。出来上がった書籍を、その場から発送すれば時間も経費も無駄がないのです。これが協会の運営方針です。

深尾 ネット化が進む中、地域ブロックの強化も進められたようにも思いますが。

八板 各地域の風習、性格は違っていていいと思うのです。全国統一しようとするのは中央の考え方であって、全国的に考えれば、それぞれが競っていいのです。ディズニーという会社は、仲の悪い者でチームを組ませるという話を聞いたことがあります。競うこと、違う意見から学ぶこと、これらは成長するために必要なことです。意見が対立したとき、自分が間違っているかな、と考えてみることも大切なのです。それができないと、いつまでも子供のままで終わってしまいます。屁理屈を並べて、相手に勝つだけでは大人になれませんものね。最近、そのように駄目な政治家が多いので、そのような国民が増えてしまったようです。

深尾 耳の痛い話です。

八板 協会はみんなのモノです。しかし自分のモノではない、という考えを会員一人一人が持たなければなりません。譲り合い、認め合い、助け合いをできなければ会員として長続きしません。また、誰かがやってくれると思っていては駄目です。自分たちを良くするために自分も動かなければ駄目です。文句や愚痴を言っているだけでは先に進みません。だから、そのような方に役員をお願いしてみるといいのです。他人の苦労がよくわかりますから。

深尾 みんなで知識を共有するための場として、技能認定講座がスタートしたのは確かベーシックコースでしたね、その後オペレータとビギナー(スーパーベーシック)だったと思うのですが、いつ頃から始められたのでしようか、またそのきっかけは何でしたか。

八板 娘が服飾デザインの学校に行っていて、その教科書をみると基本はどの先生も同じなんです。音響の世界が確立されないのは、音響家の基礎教育の基盤ができていないと思ったのです。メソッドというヤツですね。それを作ろうと始めたのです。講演会もいいのですが、体系的に指導する形を作ろうと思っていたところ、TOAさんが自社のスタジオを貸してくれました。受講者のためにコーヒーとスナックも提供してくださいました。そのときの教科書はリコピーで数枚でした。最初は200名を目標として開始しましたが、現在は2,000名を超えました。

深尾 技能認定講座は、音響メソッドの確立なのですね、すごい。

Macユーザーの会長ですが、90年代後半(win95時代)頃からの、協会のコミュニケーションの電子化を強力に進められたように思うのですがどうしてですか。

八板 私たちは仕事柄、連絡を取りあうのは難しい状況にあります。夜中か早朝でないと連絡が取れませんよね。郵便は遅い、夜中のFAXは家族へ迷惑をかける。電子メールは、騒音もないし迷惑もかからないし、無料。MacもWinも関係なく通信できます。でも、論争するときはメールではいけません。論争は「顔を見ながらやるべし」です。

深尾 現在の協会は法人ですが、設立以来、永く続いた任意団体から法人に移行するのに手続き事務作業も大変でしたでしょうが、会員の総意がよく得られましたね。

八板 扱う予算が大きくなると、つまずいたとき、法人にしないと責任が個人に掛ってしまう危険性があります。支部の運営状況を観察していて、潮時かなと判断しました。NPOにしようと考えていまして総理府に相談したところ、私たちの団体は中間法人がよいのではというアドバイスをいただき、そのようにしました。中間法人は簡単な登記で済み、運営も楽です。また法人をみんなで運営することで、一回り大きな人材が育つのではとも思っていました。法人化反対の方々もおりましたので支部ごとに説明会を開催しました。営利を目的とした団体ではなく、会費を値上げする必要もないのでご理解いただけたかと思います。また300万円の基金が必要でしたので、寄付金を募ったところ大金が集まりました。これほどまで熱意のある会員がいるということは協会運営の励みになりました。そして無駄遣いを無くして健全運営に心がけなければとあらためて感じました。

深尾 みんなの熱い思いと苦労の中、生まれた中間法人ですが、今度は名称が変わりますね。

八板 公益法人法の改正で、中間法人は2008年12月1日から「一般社団法人」になりました。期限までに定款の名称を変更する登記をすればよいのです。これで本協会の運営方法が変わることはありません。

深尾 話が堅くなってきましたが、これまで協会の活動に尽力されて印象に残ること、よかったことはどんなことでしょう。

八板 組織の経営の立場から、基金の募金の成功、また毎年4月になるとほとんどの会員の方々が会費を納入してくださって、郵便局から納入通知がどっさり届いたときです。このときは、協会頑張れ、というエールが聞こえてきます。よかったことは、協会での苦労が人生の勉強になったことです。そして、特に地方に行ったときに出会う会員から元気をいただくときです。このとき、苦労がすっかり消えます。

深尾 元気の話で始りましたが、良かったことも「元気」ですか。きれいに話がまとまりつつあるのですが、逆につらかったことはありますか。

八板 理不尽なことを言ってこられたときです。眠れないことが数えきれないほどありましたよ。いまでもありますが、そのようなときは動かずじっとしています。すると、こちらの思うようになります。慌てて動くと相手の思う壺です。また、広告のクライアントからは、印刷所の不手際で、何度も怒鳴り込まれましたよ。協会は遊びでやっているのではありませんし、機関誌の広告掲載は商取引ですからね。でも若いときに怒鳴られても、それはありがたい学習です。感謝しています。

深尾 楽しいことを明日の元気に、逆風をばねにして来られた経験から、これからの協会の発展に向けての抱負お聞きしてインタビューを終わりたいと思います。

八板 すでに音響バブルは終わりました。音響を目指す学生も少なくなっています。これで供給オーバーの状態が緩和されると思います。音響に携わる人たちは、常に全体をみながら仕事を進める傾向にあります。したがって年を重ねると、制作的な仕事もできるようになります。だから、音響家協会の会員の中に会館の館長や副館長などが多いのです。また、これからは音響だけでなく、広く携われる人が求められます。演出家レベルの能力を持った音響家、舞台監督、舞台進行もできる音響家、深尾さんも放送局の音声が専門なのに、今ではデジタル局の建設や、免許の書類作りや送信所のメンテナンスをやっておられるでしょう。照明や大道具の部門の人もそのように進んでほしいのですが、いまのところは音響家の活躍が目立っています。したがって、それに対応できる人材を育成するもの私たち協会の使命ではないでしょうか。これも世阿弥の風姿花伝にありますが、50歳過ぎたら手柄、つまり目立つことは後進に譲り、後ろでサポートする役をやるべし、なのです。

また、協会とは役目を失ったら必要はなくなります。もちろん時代とともに変化します。ただ組織を存続するためにだけ運営するのは疲れだけが残ります。目標を見極め、それを実現するために協会が必要なのだ、という意識を持ち続けていただきたい。いま問題になっている公益法人のほとんどは役目を失っているのに、職員の生計のために運営しているようなものです。これでは困ります。

昔は、日本音響家協会入会のメリットは何ですか、とよく尋ねられました。メリットは人それぞれ異なります。私は元気を与えてくれる仲間がいるのが協会のメリットと考えています。多くの音響家と情報交換できるのがメリットの人もいますし、ご指導していただける先輩がいるのがメリットの人もいます。芝居の全国ツアーで、行く先々に会員がいて楽しく仕事ができたと喜ぶ会員もいます。中には、メリットを探せずに協会に罵声を浴びせて去っていく情けない会員もいました。

みんなが満足する協会運営は難しいのですが、納得していただく運営はできるでしょう。初心を思い出し、良い環境でいい音を創れる人たちの集団として続けていけたらよろしいのではないでしょうか。いい音とは、国民を感動に導き幸せにする音です。舞台も放送もインターネットも、音楽も演劇も映画も、であります。そして、奇麗事だけを追求しないで、労働者としての生き方についても考えて行かないと、充実した職場環境に達しないと思っています。

深尾 ありがとうございました。


●八板賢二郎プロフィール

1966年から国立劇場の職員となり、能、歌舞伎、日本舞踊、寄席芸能など伝統芸能全般の音響を担当。

1977年、日本音響家協会の設立に参画。

1986年、プロ音響データブック編纂。

1987年、800MHz帯ワイヤレスマイク標準規格作成に参画。

日本音響家協会認定一級音響技術者、一級サウンドシステムチューナ

日本劇場技術者連盟認定第一種劇場技術者、第二種劇場技術者(舞台音響)