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館長になった音響家たち 2016年 PDF

音のゼミナール・三味線大研究 2016年 PDF

音響サロン・ハイレゾ研究会 2015年 PDF


デジタルミキサーの導入によって得たもの、失われたもの

浦河町総合文化会館

下川 正啓

2010年

 

『でじたる』に寄せる期待と不安

一昨年、長い間使われていた会館のアナログ音響卓を、後期高劣化のため入れ替えることになりました。あれやこれやと資料を引っ張り出し、老眼鏡や虫めがねを巧みに使い、既存の伝達回路を活かしつつ、しかも将来の発展性に対応できる機器を、限られた予算内でいかに選定するかと考えることは、意外と多くの時間を費やすことになりました。…が、そこは“下手の横好き”で、技術マニア的にも超おタク的にも、それはそれは実に楽しい日々を過ごすこととなりました。御多分にもれず我が小屋も、「でじたる」卓の導入を考慮にいれての選定でありましたが、自分自身かなり劣化してきておりますので、「あなろぐ」への安心感が強く、興味はあるにしても「でじたる」の導入はさほど深くは考えておりませんでした。しかしいろいろと調べて行くと、既存回路とのマッチングの壁を乗り越えるだけの「あなろぐ」がなかなか見つからず、どう組み合わせても複雑な配線となり、操作性・利便性が問われます。対する「でじたる」には、豊富なI/Oとプロセッシングが備わり、しかも内容は柔軟性に満ちておりトータルで予算的にもクリアすることができるのですが、如何せん「でじたる・みくさー」を触ったことがない吾輩にとっては、あの“つまみ”の少ない物体が実に頼りなく、地デジも映らぬ小さな画面を相手にストレスを感ずることなく、日々のライヴな業務をこなせるのだろうか…?不安がつのります。

直感的なおぺれーしょんが

そんなある日「でじたる」デモ機が届き、わりと長い間お借りすることができました。ここぞとばかりにありとあらゆる催しにフル活用させてもらいました。思っていたよりも音がしっかりとしていたので安心しました。講演などの催し物は、はじめにセッティングしておけば本番中はそう頻繁に変えることはなく操作的には問題ないのですが、コンサートとなればそうはいきません。はたして「パニックを起こさずに対応できるのだろうか?」と心配でしたが、案外すんなり操作できたことは驚きです。他の不安材料として、「あなろぐ」と違い全ての“つまみ”が出ていないことがありました。が、思ったときにすぐにその画面に移行でき、操作できるその直感性が決め手となりました。余談ですが、最近表示文字が見えにくく、いわゆる老眼が進みまいっておりましたが、意外にもあの「でじたる」の小画面が老いた眼を救ってくれたのです。感謝。

小屋での「得たもの」と「失なわれたもの」

当会館の調整室は6階に位置し、3階のステージまでは階段での導線となりなかなかの体力を要する小さな町の小さなホールです。多くの方に幅広く使われる施設にとって大切なことの一つに、利用者の要望に機敏に対応できることが必要だと思っています。今回の更新により音質の向上はもちろんですが、チャンネルの余裕とDSP等エンジン内蔵のため、比較的短時間での対応ができることは大きなメリットだと感じます。またPCエディターを利用して効率良く仕込みができること、そして何より出演者と直接コミュニケーションを図りながら進めて行けることは、「でじたる」のアイテムならではの結果となりました。
また軽量小型のため、必要であれば客席や中小各ホールへ気軽に移動できる利便性も今回得たものなのかもしれません。
さて、一方の「失われたもの」とは…。
アンプ室のGEQと、調整室の周辺機器のラックでしょうか。今思えば、あの限られた入出力端子盤とにらめっこしながらパッチすることを、自分ながら楽しんでいたのかもしれません。あるコンサートで、客席でオペレートしていた時のことでした。主催者が私に「照明さんですか?」…。今までPAといえばごみ屋敷のごとく、山積みの機材に囲まれているイメージがあったのでしょう。またそれがOPとしても安心感があったのも事実です。「でじたる・みくさー」と再生機が2台という姿に「へぇ〜、シンプルなんですね。今は…」 「え〜、まぁぁ!」そのとき手元ではカラフルな色で表示された卓が私の顔を照らし上げていました。昔の風景も失われたのかも。

おわりに

「でじたる」であれ「あなろぐ」であれ最終的には出す「音」の質だと思います。今回、当会館で「でじたる」を選定したことは正解だったと信じています。しっかりとした芯がある音、直感的にできるオペレーション。このことが選定の決め手となりました。しかしまだ未知の不安要素もいくつか残っています。ひとつは故障修理費の問題。メインボード1枚に全てが入っている事を考えると、アッセンブリ交換でそれなりの金額に。 そして「でじたる」の寿命は?
「でじたる」なので音の劣化はないにしても、音の変化も起こらないのでしょうか?
「得たもの」と「失ったもの」あなたの周りではいかがですか?

(日本音響家協会機関紙2010年1月号から転載)


皆既日食をイベントにした男

イベントクリエイター

小松裕一郎

2009年

 

2009年の7月は皆既日食の話題で日本中が沸騰した。さまざまなイベントが各地で繰り広げられたのだが、悪天候で日食を見ることはできなかったのに客を喜ばせたイベントがある。そのイベントを成功させた小松裕一郎さんに、その創造プロセスをうかがった。(2009年10月26日に開催した日本劇場技術者連盟主催「めざせ、創造する劇場技術者」から)

 

Q 本日のゲストとしてお招きした小松裕一郎さんにいろんなお話を伺いたいと思います。小松さんはすばらしい仕事をしました。これは運もあれば、いい仲間にも恵まれたのではないかとも思います。皆さんのお手元に配りました資料を参考にしながらお聞きいただきたいと思います。小松さんは私立の中高一貫校の教員をされていました。数学が専門ですが、別の学科もやりたいと思われて学校を辞めて大学で勉強されています。その傍ら音楽も好きで、音響家協会のセミナーや講習を受けて、音響家協会の会員にもなられました。小松さんは皆既日食のイベントを企画制作されたわけですが、普通に考えれば見える島へ行けばいいと思うのですが、そこが違うのです。

小松 そうですね。まず日本では46年ぶり、この後は26年後までなくて、さらに、日本で6分間も皆既日食を見られるのは千年に一度しかない、もの凄い日食です。ここに目を付けた大手の旅行代理店が独占契約をしてしまい、四〜五十万円のツアー募集していました。千年に一回しかない日食をお金がある人しか観る事が出来ないのは可笑しいじゃないか?そこから始まった話です。はじめは東京発着で出来るクルーズ客船を探したのですがこの時期、全て押さえられていて、タンカーを当たってみたら有ったのですが、国交省の認可もさることながら、タンカーの定員は20人から30人くらいで真夏に鉄板でできている甲板の上に五日間千人もの人を乗せてと云うのもどうか?これも見送りなりました。引き続き、外に情報を流していたら去年11月ごろロシアの船があることが、情報として入ってきまして、そこから始まった企画です。最初に思ったことは島に受け入れのキャパが無かったから船で行ったら面白いじゃないか!!!そんな発想でした。私は企画の条件には三つの要素が必要だと思います。まず一つめに面白いこと、皆で何日か掛けて船で行く!二つめに需要があること、今回日食があることはわかっていたことですから需要はあります。三つめに実現可能であること、私、前職は数学の教員だったのですが、理科の教員免許が欲しくて、たまたま大学に通っていて、時間がありました。この三つが揃たこと。が、実現できたと思います。

Q そこで、ロシア船はどうでした?

小松 ウラジオストクと日本の富山を往復していて、日本から中古車を積んで行き、ロシアからは材木を積んで来る船ですから、甲板が広かったです。今年1月にその船を見た瞬間、これは、やろう!と思いました。

Q それには、いろんな許可が要るのでしょう?

小松 国交省の許可とかは勿論ありますが、カポタージュ条約と云うものがありまして、飛行機であれば国際線、国内線とありますが、例えば日本の飛行機がアメリカへ行って、アメリカ国内から国内へは運行できないのです。そう云う条約があるのですが、と云うことでロシアの船を日本国内から国内へと云うことは本来、出来ないはずないんですが、今回は、“日食で日本の船が全て埋まっていて他に船がない”と云うことでお役所の方も特別に許可を出してくれました。

Q 今回、その手法も覚えましたか!

小松 そうですね、お役所は通うことですね。(笑)先ほどのタンカーに定員20名のところ1000人の人をのせるにはどうしたらいいかを、役所に通う段階でいろんな人にお話を伺っていたんです。お役所にはとにかくお伺いを立てて通えと、アドバイスしてくれた方もいました。そのアドバイスで、結果的には運行の一ヶ月前ですが、無事に運行許可も出ました。

Q つまり、お役所というところは戦わないで「こうしたいのですがどのようしたらいいですか?」とお伺い立てるとうまくいくわけですね。それって役人の心理をうまく突いていますね。(笑)それと音楽を乗せたということが成功ですかね。

小松 今回は私も含めてイベントを企画する側に廻っていますが、私のまわりの方たちで、たまたま日食天体マニアがいて音楽も好き、また、音楽好きの人も日食を見たい方たちもいました。どちらの需要も満たしていました。たぶん音楽を乗せた日食クルーズ船は他にはなかったと思います。

Q どういったジャンルの音楽でしたか。

小松 四打ち系もありますがボアダムス、テクノ、ハウス、ディスコとかクラブ系ですね。

▲船上コンサートの様子

Q プールの部分をステージして、それを乗客が囲むようにして観ていたのが良い雰囲気ですね。何日の旅だったの?

小松 3泊3日です。

Q それで今後はこんな予定はあるのですか?

小松 クルーズ関係の旅行代理店にも信用を得たものですから…(笑)船のことを含め考えていることはあるのですが、実現可能かどうかを検証している企画が5、6個、例えば来年には南太平洋のイースター島で皆既日食がありますが、日数や費用のことを考えると少し無理かなと思っています。その他いくつか検証しています。

Q 結局、日食は見られなかったけど、お客さんは納得したということですね。参加者は「まあ、いいかって!」(笑)

小松 船の中でのコンテンツも良かったので、幸い不満や苦情も無かったのが良かったです。

Q 船旅としても面白かったということですね。

小松 船旅が初めてという人も多かったと思うのですが、その辺も良かったと思います。船会社の方から聞いたのですが、船のなかで誰かが一回不満を言い出せば雪だるま式に大きくなり、最後には暴動になっちゃうことがあるそうです。かなりビビッタたんですが、今回はそういうこともなく良かったです。

Q それは音楽で癒されたこともあるでしょう。

小松 陸にいると見えない日食を、皆で沖に船を出し見に行くんだ!という段階での一体感が、かなり生まれてきまして、それがあったんですね!

Q 劇場のお客さんと一緒なんだ。みんなが同じ空気を吸っているんですものね。

小松 目標が一緒だと仲良くなれるんです。

Q 船の食事はどうでしたか?

小松 食事も悪くなかったです。実際に船も何度か下見に行きまして、一通りのメニューも食べさせてもらいました。おいしかったです。

Q 料理人はロシア人ですか?

小松 厨房の中まで見た訳ではないですが、乗組員全員ロシア人です。

Q そういうところが面白いよね。乗船したのは何人でしたか。

小松 そうですね、スタッフも入れて、430人です。別に乗組員は120人です。

Q それで5万円ですか。

小松 それは、さすがに無理でした。10万円台でした。

Q 3泊でそれで行ければいいよね。大きい船でしたね。

小松 13.000トンの船でした。日本のクルーズ客船より少し小さく、フェリーより少し大きいくらいです。

Q 企画の途中から一人、相棒が参加されましたね?

小松 コンテンツの部分でどうしようかなということになり、私、音楽関係のイベントをやっていますから興味を示す人は多かったです。時間が無くてやることが決まりはじめていました。実際、星ナビと云う雑誌に乗せて、天体マニアの船にしようかとも考えていました。意外なところでは、ゴールデンウィークに東京ドームでコンサートをやったロックバンド関連のイベントのオファーもあったのですが、ロックバンドの好きなお客さんが集まっても、日食に興味があるのかはまったく分からない訳でして(笑)結局、決めきれずに情報を流し続けていたら、森田善ノ介さんという方から連絡が入りました。森田さんも、悪石島で日食を迎えるパーティーをしようと考えていた人で、数年前から日食を見ようと奥さんと移り住んでいた人でした。彼からのオファーがあり企画が戻って来たのが、日食まで2ヶ月を切っていたときでした。そこから全てが動き出しました。

Q お客さんが良かったのですね。雑誌(Brutus)の取材記事に書いてあるように “ちゃんと遊んできたオトナたち”遊びを知らないガキたちは誰もいなかったのですね。

▲甲板の様子

小松 DJやアーティストによって客層が変わりますが、結果的に客層も良く恵まれていました。

Q ただ有名なミュージシャンを集めればいいというものでもないですね。

小松 お客さんを集めるだけならいいかも知れませんが、日食クルーズのイメージから外れないように、そこは慎重に選びました。

Q そうですね。小松さんがトータルで納得しないと、いい仕事ができないですよね。

小松 今回、理想を高く保ちたかった企画なので極力妥協しないように、逆にリスクもあって理想を保つと倒れていた企画かも知れません。たまたまうまくいってくれました。

Q 小松さん以下、メーンのスッタフは今回、何名くらいで運用されたのですか。

小松 アーティストも含めると6、70名くらいです。乗船しないスッタフも含めると100名くらいです。

Q それにしても、度胸のいる企画だね。(笑)旅行代理店が付いていたのですか。

小松 旅行業法という法律がありまして、私が旅行業務のチケットを売ることはできません。旅行代理店は付いていましたが、船のリスクは旅行代理店ではなく、別の所でした。

Q それにしても、結果は良かったですよね。小松さんは初めてこういうことをされたのですか。

小松 金額の規模では初めてです。小さなパーティーをオーガナイズすることはありましたが、マネージメントが得意でしたので、オーガナイザーに助言したり、DJをしたり、音響もやったり、全体につまみ食いをしていたものですから、全体を見ることが何となくできていた面はあるかと思います。

Q そういうわけで、引き出しがいっぱいあるのですね。

小松 そういう機会が多かったことは確かです。

Q なんにでも興味を持っておられているから、いろんな発想をされる。
今回の成功で自信が付いたと思うのですが。

小松 自分の曖昧だった方向性が、少数派かもしれませんが間違いじゃなかったということで、自信は付いたと思いますね。結局、「何がしたい」よりも「何ができるか」が重要になってくる場面もあると思います。例えばクラブイベントに行っても必ずしもコンテンツがいいから、いいブランドイメージを持って帰られるかというと、そうとも限らないと思うのです。ブランドイメージは15秒で決まるとよく言われますが、その15秒のために、いろいろ考えてみたりとか、そうするとコンテンツ以外の部分でお客さんが持っているイメージが変わったりとか。また、リスクの面で、音楽イベントは音が出ますから、地元対策、警察対策、時にはヤクザ対策までしなければならない面と、それから、オーディエンスがどう感じているかとかという点、一方通行じゃないフィードバックで工夫してみる。あと、コンテンツとは別な部分でのマネージメントですね。私が今まで、そうした視点で関わってきたことが、今回のことで自信が付いたということはいえると思います。

Q いい内容、いいコンテンツであったとしても、時節に合わなければダメなことがありますからね。それが今回は皆既日食ということで、ピッタシ合ったわけだよね。タイムリーな企画でした。

小松 そうですね。

Q これからも是非、ワクワクさせてください。凄く夢のある、それを実現した話。いいじゃないですかね。ありがとうございました。

■写真撮影「Mixtribe」


インタビュー「FM放送界の現在」

株式会社メディアコミュニケーションズ 代表取締役

松田 賢一

2010年

 

Q FM東京の創始期から携わっていましたね。

松田 民間FM放送の先駆けであるFM東海は1958年、東海大学超短波実験局としてFM放送の実験放送を開始、1960年実用化試験局としてCMが挿入された番組制作が可能となりました。松田は当時まだ中学生でトリオ社やスター社から出ていた受信コイル、中間トランスキットを使って真空管式FM受信機を一生懸命自作していました。更にステレオ放送が始まると、これにマトリクスコイルキットを組み合わせ、当時出回ったSONYの4トラックステレオデッキ(TC−263D)に録再アンプを自作した録音機でエアチック(放送からの録音)しておりました。分離度は悪く20dBも取れてなかったのでは。
大学時代に若林先生(日本音響家協会初代会長)と出会い、色々な録音セッションを駆け出しとしてお手伝いさせていただきました。その折、港区虎ノ門にあるFM東海のスタジオに大阪万博の仕事で数回出入りしておりました。

Q そうでしたね。1970年の大阪万博の鉄鋼館で若林先生指揮のもと、斬新な音響創造をやっておられました。

松田 万博ではホール内を天井、壁、床をスピーカで聴衆を取り囲み、立体音響と共に音楽に合わせたレーザー光線での照明の組み合わせで、作曲家の武満徹さん音楽監督、音響監督若林駿介さん、音響のチーフに及川公生さんとそうそうたる先生方のなかで大変貴重な経験をさせていただきました。FM東京(現TOKYO FM)への入社は万博終了後の1971年で、1970年4月に開局していますから、1年遅れとなりますね。

Q FM放送誕生の目的は、音質向上とステレオ送出でしょうか。

松田 FMは文字にあるとおりFrequency Modulation(周波数変調方式)であり、振幅は一定でノイズ等には波形制御のリミッタが働きノイズを除去することでクリアです。
また、音声伝送周波数帯域が50Hzから15kHzの帯域を保証しているのに対し、AMはAmplitude Modulation(振幅変調方式)でノイズの影響を受けやすく音声伝送周波数帯域は100Hzから12KHzであることから音質的にはFM放送が勝りますが、放送エリアではFMの県域に対して、AMは広域であり電離層伝播するため、かなり広範囲に電波が伝播するが、反面他国からの電波で混信するなど問題も多いです。
元来AMの混信対策のためFM放送帯域が検討されたようですが、いつの間にかモアチャンネルとして全国にNHK,民放が置局され、ステレオセットの普及に貢献しました。また、更に現在のFMバンドにはコミュニティFMが現れ76MHzから90MHz帯域はラッシュアワーのごとくひしめき合っている状況ですね。
AMラジオの526.5kHzから1606.5kHzは世界共通ですが、FMは前にのべたとおり76MHzから90MHzで、受信機によっては更にTV1chから3chが受信できるものが多い。これは世界的に、FM放送が76MHzから108MHz(90から108はTVの1chから3ch)であるためです。今後、2011年のテレビデジタル化によってテレビのVHF帯が返還され、TVのローチャンネル(1chから3ch)はマルチメディア放送(音声を中心としたデジタル放送)に割り当てられる予定です。ますます音声放送は多チャンネル時代へ突入することになりますね。

Q 昔のAMのステレオ放送は、二つの放送局を使ってやっていましたね。

松田 私が学生時代にNHK第1と第2放送で、民放は文化放送とニッポン放送でステレオ放送をしていましたが、当時はまだ5球スーパーと呼ばれる真空管式のラジオが主流の時代でした。2台同じ機種を並べてというのは、一般家庭では困難なことで、仮に2台あったとしても、異なるスピーカ、受信機自体の位相特性などステレオ再生に不可欠な条件がそろわず、厳しい環境でステレオ放送を実施していました。
ラジオ雑誌に当時のラジオ東京(現TBS)がFM−FM方式のステレオを実験、受信機の製作記事が乗っかっていたことが記憶にあります。当時の放送局が皆ステレオに挑戦していたことがわかりますね。
若林先生から当時のお話を伺った中に、ステレオマイクのお話がありました。
先生が文化放送時代に休職して米国へステレオの勉強に行かれ、手製の金具でノイマンのM49を2個、指向面を90度ずらした位置で固定するM−S方式のステレオマイクで収録する形式を取得して、日本に戻り早速自作したといいます。それはRCA・77Dを双指向に、SONYのC−37Aを単一にして、双方を90度ずらし固定する金具を作ったそうです。
特性、動作原理の異なるマイクロホンの組み合わせによるM−Sの音質はいかがなものであったのでしょうか。その評価を聞くことがだきませんでしたが、放送は単一の37Aの音声を使ったよと言っておりました。これがステレオ創成期なのですね。若林先生のあくなき音への追求に、いまさらながらに感服いたします。

Q その時代の録音は今聴いても感動します。若林先生の米国での勉強は日本の録音界にも大きな影響を与えましたね。当時のFMは、エアーチェックを重視していたように思いますが。

松田 1970年代初期は、私の初任給が5万円程度の時代でしたが、レコードの値段が現在のレンタルCDが300円とは異なり、LPの価格が2千円しておりました。
レコードの値段は当時も今も殆ど変わりませんが、給料に対する比率は大きく違っており、毎月1枚購入するのがやっと、たいへん高価な宝物でした。オーディオセットが「三種の神器」の一つに言われたときでもありました。オーディオ・コンポーネント・ステレオと言われ、上部にLPレコードプレーヤーを、その下にFMチューナ内臓のアンプ、その下にLPレコードラックを配したコントロールセンター、両サイドに16cmから20cmのスピーカをセットしたスピーカボックス。このシステムがオーディオブームとして一般に普及しだした時代ですね。LPレコードの音がそのままFMで聞ける。まさにFM放送はその波に乗っておりました。トリオ、山水、パイオニアのオーディオ御三家に始まり、大手電気メーカのオーディオブランド、Lo-D、テクニクス、オーレックス等が続々立ち上がり、FM雑誌が競って番組情報を掲載し、オーディオブーム真っ盛りでした。
当時のFM放送番組は、今と違い新旧レコードを殆ど完奏する形で作られ、放送されていました。AM放送に比較し、ノイズがなくステレオで放送される音楽はレコードとほぼ同等の音質で聴くことができることから、オープンリールの4トラックステレオレコーダによるFM放送のエアチェック(録音)が盛んに行われるようになり、カセットレコーダの登場が更にその勢いに拍車を懸けました。
番組もおのずとレコードをかける番組以外にコンサート等を収録して、レコードにはない演奏家の生の音楽を放送する番組も増えました。TOKYO FMでは、多いときには週に4本のライブ収録番組がありました。

Q 新しい方式のレコーダが次々と開発された時代でした。

松田 1960年代後半から70年代前半はオープンリールの4トラックレコーダが主流で、3モータ3ヘッドのレコーダが高値の花、憧れでした。社会人となり、ティアックR−55、デンオン700、SONY777等を手に入れ自分が携った番組などを自宅で楽しんだものです。そうしているうちオランダのフィリップスからコンパクト・カセット・テープ方式のレコーダが発売されるようになりました。発売当初、会社にも導入されましたがテープヒスノイズがひどく、こんなもの使えないよと言っておりましたが、SONYのサーボ技術でテープの回転精度が格段に向上し、ドルビー研究所からドルビーノイズリダクションシステムが開発され、あっという間にカセットテープが市民権を得てしまいました。それに伴い、カセットテープ自体の記録性能も向上し、エアチックブームは最頂点に達します。
それに伴いほぼ平行してウォークマンの登場です。エアチックした番組をウォークマン聴きながら通学、出勤。いつの間にかレンタルレコードが物議をかもしながらも社会的に認知されるようになり、レコードをFMからでなくレンタルレコードからカセットテープに録音し、ウォークマンで聞く。更に記録媒体はMDになり、今ではメモリーと記録媒体は小型化が進み、音源もレンタルからウェブへと変化してきています。
FM放送は音楽のプロモーション・メディアとして成長してきましたが、レンタルレコードの登場、ウォークマンに代表される携帯型プレーヤの台頭によりレコード自体の売れ行きも変化してきました。当然FM放送もプロモーション・メディアではなくなり、限りなくラジオ化しました。今ではステレオ、モノラルの区別より、いかにコンテンツが面白いかと言うように状況は変化してきています。

Q 長寿番組のジェットストリームは素晴らしいですね。別世界に入り込んだ心地で聞いていましたよ。

松田 ジェットストリームはFM東海実用化試験局のときに生まれた番組で、当時はまだ海外旅行は高嶺の花。テレビでは「兼高かおるの世界の旅」が海外旅行のすばらしさを伝えておりました。FM放送では海外の模様を堀内茂夫さんの詩と、城達矢さんの語と当時のイージーリスニングサウンドがマッチし、JALパックで行く世界旅行を、本来この番組を聴きながら夢を膨らませ、お休みなさいと言うコンセプトで作られたそうです。FM東海時代からの長寿番組で、FM放送の代表的な番組ですので、城さん亡き後も継続的に番組を維持すべく制作陣は、今も頑張っています。

Q FM局が日本国民を高音質思考に牽引していったのではないでしょうか。

松田 元々持っている音声品質をベースに常に新しい技術に挑戦してきました。CDの登場により何処の放送局よりも早く業務用CDプレーヤを導入。LPからCDへの転換を図り、録音機もPCM録音機の導入に始まりデジタル録音機を経て現在のテープレス化に至っています。
開局当初からローノイズ・ハイアウトプット型の録音テープを38cm/secで回すことに始まり、4チャンネル放送、日本最初の海外ステレオ衛星中継、音声コーデックの導入による簡易国内ステレオ中継の実現。その技術の集大成、自営の国内JFNネット回線の構築等、常に先端技術を導入してきました。その結果、エアチックブームにもつながり音質的な向上にリスナーと共に歩んできたのではないでしょうか。

Q この時代の録音メデイァは6ミリのオープンテープで、10インチを38で回していたと思いますが。

松田 音質向上には録音テープにこだわりがあり、当時のラジオ放送局では111番タイプの標準磁気テープを19cm/secで使用しておりました。ライブ等の録音は場合によって38cm/secでまわしていたようですが、TOKYO FMでは開局と同時にスコッチ201番のローノイズ・ハイアウトプット型を38cm/secで使用していました。その後はポリエステルベース・バックコートのスコッチ206番に変更、更にアナログテープ国内生産終了までマクセルの放送規格BQを使用してきました。これをテープのコスト面で見ると速度で2倍、価格で約2倍ですから、合計4倍のコストアップです。しかしながらレコーディングに使用されるテープでもあることから、ダイナミックレンジ、テープヒス等では111番よりはるかに有利でして、FM放送の持つ音質を損なうことの無いよう、ハイファイにこだわりを持っていました。

Q FM東京さんを訪れたとき、編集されてつなぎ目のあるテープも使用されているのに気付きまして、私たちも見習ってそのようにしましたよ。

松田 ハイコストの録音テープを一度で没にするわけにいきませんので、長期保存のテープ以外はランニングにまわされました。番組に使用しますので当然編集作業が伴いますので、はさみが入ります。規定では10インチテープで15箇所以内の編集であればランニングに回されます。それ以上でしたらテープクリーニングし、使用できる部分を7号、5号に巻き換えて使用します。無駄にはできませんからね。

Q 現在のように、音楽をインターネットでダウンロードするようになると、FM放送の使命も変化しましたね。

松田 大変苦労しています。ラジオの変革期ではないでしょうか。
FM放送は先ほども申しましたが、音楽のプロモーション・メディアとしての位置づけが大きい時代もありましたが、レンタルCD、携帯プレーヤの台頭で、聴かれ方は大きく変化してきております。
また、ラジオはバッテリーでも容易に稼動するので災害時にはラジオが強いと言っておりましたが、現在はテレビデのジタル化に伴い、ワンセグが携帯に搭載されたているのですから、ラジオが災害に強いとはもはや言えない状況になっています。何度も申し上げているようにコンテンツの時代に、FM放送に何を求めているのかを考えてかなければなりませんね。

Q 字幕放送にも挑戦しましたね。

松田 FM放送の限りない挑戦として、帯域の有効利用の点からFM文字多重放送『見えるラジオ』を全国FM放送協議会加盟全社で始めました。ラジオを聴きながら必要な情報がいつでも見えると言うコンセプトで、ニュース、天気、交通情報の3つを柱に平成6年4月から開始しました。これをきっかけにGPSの位置情報補正などの情報も追加されましたが、受信機コストがなかなかローコスト化できず、新たな搭載ラジオが登場していない中、後発で開始したNHK−FMがVICS情報(道路交通情報)を残し、文字情報は終了してしまいました。携帯にも同じ発想で実時情報が流れておりますがコンセプトは見えるラジオと同じです。今後始まるマルチメディア放送でのコンテンツ展開において、文字情報の収集、編集送出などの貴重なノウハウを身につけることができました。

Q AM放送によるステレオ放送計画もありました。
松田 ステレオを喚起するために大いに歓迎しましたが、見えるラジオと同じように受信機コストの点で、普及に苦慮されています。私も受信機を持っていますが一度だけ聞いてそのままです。

Q デジタルの世界になって、よいことも悪いこともありますが、現在の録音媒体は何でしょうか。

松田 国産アナログテープ生産終了に伴い、スタジオ、送出系のシステムをテープレス化としました。局内での制作においてはムーバブル記録媒体はありません。局内ではハードディスクに記録、編集したものが送出サーバに転送され、放送される仕組みに変わりました。 

Q 放送の使命とは、言論の自由の面白さもありますが、同時性、地域とのコミュニケーションなどが本名ですが、これからは原点に戻るのか、はたまた、これまでと異なった異次元の世界に行こうとしているのか。ご意見をお聞かせください。

松田 FM放送においては、2011年のTVのデジタル化によって、テレビのVHF帯の90MHzから108MHzのFM放送帯域がマルチメデイア放送に開放されます。それ以外にも、10chの半分から12chまでの帯域もマルチメディア放送に開放されます。このとき、地域放送のコミュニティFMに割り当てる周波数帯が既存の76MHzから90MHzの枠では一杯一杯なため、この新たな枠組みの帯域に何処まで割り付けられるかによってコミュニティFM放送の活性化も決まってくるでしょう。また、その帯域およびそれより高い帯域でマルチメデイア放送を開始するため、そこへ参入する希望者を募っているところです。既存のAM放送とFM放送は存続であることから2011年以降は音声系放送局も多チャンネル時代となります。ますます個性化を求められる時代と成って行くのではないでしょうか。

Q 音質とかいう性能だけではなく、番組の内容、編成が勝負どころですね。

松田 そうですね。何度も申し上げていますが、基本は仕組みではなくコンテンツなのです。何をリスナーが求めているかを見極めたところが勝ち組になるのでしょう。

(日本音響家協会機関誌2010年1月号から転載)


インタビュー「レコード界の現在」

コロムビアミュージックエンタテインメント株式会社

久木崎 秀樹

2009年

 

Q 従来のレコードメーカは、大きく様変わりしたようですね。

久木崎 1970年代のレコードメーカと現在を比較すると、あの当時は電機メーカの傘下にレコードメーカがありました。ソニー傘下のソニー、日立のコロムビア、東芝の東芝、松下のビクター、パイオニアのワーナーパイオニア、トリオなど、また海外のメジャーも様々なレーベルが競い合っていました。現在では、海外のメジャーはユニバーサル、ワーナー、EMI、ソニーBMGと4社に統合されています。国内は電機メーカの資本が離れ、代わりにエイベックス、第一興商(クラウン、徳間)、吉本興業などで、エンタテインメント色が強くなっています。
また、昔はそれぞれ、自社の録音スタジオや製造工場を持っていましたが、現在はほとんどがレンタル・スタジオでの収録です。

Q レコーディングから販売までのプロセスも変化しましたか?

久木崎 昔はレコード会社に制作スタッフと資本があり、自主制作していましたが、現在はアーティストが所属するプロダクションと提携している音楽出版社が制作費を投下してマスター音源を作成し、レコード会社はパッケージの販売のみ、という形がJ-POPS部門の大半を占めるようになりました。その結果、自社のスタジオが不要になってきました。

Q レコード会社がスタジオを持つ必要がなくなったということは?

久木崎 資本効率などから、海外のメジャーが率先して買ってあったスタジオや工場などの不動産を整理し、また音楽出版社主導によるレンタル・スタジオでの録音に替わってきました。その結果、自社スタジオの持つ良さ、つまり伝統や伝承、メーカのサウンドポリシー、そして様々な音楽ジャンルの録音の機会が失われてしまったように感じます。

Q 販売の形も大きく変化しましたね。

久木崎 レコード店でいうと、町に一軒あった小さなレコード店は大半が廃業し、主な地方都市にある外資系やチェーン店に。また、レンタル店の中にCD販売店があるというように、いわば平和共存の形などになってきました。販売店員も大半がアルバイトで専門知識が無いので、客とのコミュニケーションがとれない状態です。それが中高年のレコード店に足が遠のく一因ともなっています。替わりにネット店が急拡大しています。クラシック音楽に限ると、日本最大のレコード店は某外資系のネット店です。
また、駅のコンコースやホームセンターでも売られるなど、「貴重品からグッズへ」と消費者の意識も変化しています。

Q クラシックコンサートで終演後にCD販売などもするようですね。

久木崎 クラシックCDが置いてある店は、ほとんど県庁所在地などの大都市にしか存在しなくなりました。一方で音楽教育や「のだめカンタービレ」などメディアの普及、さらに地方にも音楽専用ホールが数多く作られ、良い音、良い雰囲気で生演奏を楽しめるようになったことから、クラシック音楽が海外の恭しいものではなく、自分たちの生活の一部になってきました。聴衆は思い出として、演奏家は挨拶として、終演後のサイン会と販売という形になっています。

Q 日本コロムビアはデジタル録音の草分けですが、すっかりデジタル時代になって、エンジニアにも変化があるのではないでしょうか。

久木崎 デジタル録音の初期は自ら必要な機器の開発にも携わって、音の良し悪しを耳で判断していましたが、昨今はコンピュータ関連機器の発達により、ディスプレイを見ることにより音の状態がある程度判断できるようになって来ました。例えば、20年前にはマルチマイク使用による音の濁り解消方法は理論では判っていましたが、機器がそこまで追いついていませんでした。今日ではディスプレイに映し出された個々のマイクの時間差を補正することにより、歪感を低減することが可能です。またデジタルEQの目盛はアナログEQでは考えられなかった無限のEQ特性を作りだし、録音現場では出来なかった修正が後処理でできるようになりました。
これからもデジタルの技術は進歩していくので、機器に振り回されないために、耳の判断だけでなく、正しく使いこなすための基礎理論が必要とされるのではないでしょうか。

Q アナログのあの音がよかったといって、その時代に戻れるわけでないので、デジタル機器の中で、いい音を作っていく手法を見つけていかなければなりませんね。

久木崎 今日あるアナログ名盤は歴史の中で淘汰された、素晴らしい演奏、録音のものです。また、デジタル初期にも、いま聴いても「いいな」と思えるものがあり、また、今日の機器の手を加えることにより、現在の録音に匹敵する音源もあります。
強引な例えですが、アナログ録音は「色の三原色」、デジタル録音は「光の三原色」と考えると判りやすいでしょうか。
アナログ録音ではマイクという絵具を重ねると質感は出てきますが、一方で音が濁ってきます。一方、デジタル録音では電子的補正を行なえば、奥まで焦点が明確で透明度の高い録音が可能です。
この透明度を基本に、アナログのような質感の高い録音を行えば、「新たな良い音」が創れると確信しています。

Q マスター素材の保存、いままでの保存物はどのようにされているのでしょうか。

久木崎 当社ではマスターテープはアナログ、デジタル問わず、そのまま保管しています。また音楽配信や高品位デジタル複製に向けて24bit、96kHzで大容量記憶媒体に移し変えて、保存しています。初期のデジタル機器は再生不可能のカウントダウンが迫ってきていますので、こちらを優先して行なっています。

Q 売れるCDというのは、エンジニアから見る目と営業から見る目は違っていると思うのですが。

久木崎 最近の高性能マイクや録音機器を使うと、分解能が良いので、録音現場ではとても良く聴こえます。しかし、持ち帰って家庭で聴くと「ガッカリ」という事態が生じます。
音に厚みが無かったり、バランスが悪かったり、響が足りなかったり、大音量のときだけ良かったり、ということです。
営業から言える「売れるCD」とは、商品の自己主張がはっきりしているものではないでしょうか。絵に喩えると「何か、惹きつけるものがある」ものと思います。

Q 今、レコード界で一番大切なことはどのようなことと思っていますか。

久木崎 最近はどの業種もそうですが、会社、業界の第一方針が「株主のため」、「利益優先」となり、人材は育てるものでなく、他から引っ張ってくる傾向になります。自社スタジオが無くなったことで話をすると、「多様な音楽を録音できる人材が育たない」、「メーカーのサウンド・ポリシーが無い」、「理論とテストや実践を行なう余裕が無いため、未来の音響設計図が描けない」と悪循環になりかけています。
現在の収音テクニック、機器を疑い、その問題点を解決し、世にアピールすることが次世代で音響が成長する道と思います。

Q 次世代へのエンジニアへ一言。

久木崎 色々と述べましたが、一言でいえば、「現状に満足せず、疑問と夢を持つ」ことでしょうか。

Q とても貴重なお話、ありがとうございました。

(日本音響家協会機関誌2009年1月号から転載)


経営力と創造力

ボーズ株式会社代表取締役社長

佐倉住嘉

2008年

 

経営力は創造力という難しいお話をさせていただきます。

経営は商売です。では商売とは何だといいますと、安く仕入れて高く売るという原理です。上はトヨタから下は町の豆腐屋さんまで同じ原理です。
そう考えれば理解できます。安く仕入れて高く売るという商売には、いろんな仕事があります。豆腐屋さんは大豆を蒸して叩いて、いろいろやって売り出します。しかしながら、必ず売れるとは限りません。これは博打です。競馬と同じで、原理は博打です。まず最初に皆さんに知っていただきたいことです。
国家があって税金を取る。つまり国は胴元と同じです。ただし、博打は自分が儲けるため、ビジネスは社会や人に役立ててという違いを理解してください。
商売は、まず第一に自分が一所懸命に走る、第二に自分の腕を磨く、第三に運です。ビジネスは運が半分、残りの五割が一所懸命に走ること。そして自分の腕を磨く(体力を付ける)が全てです。

私はこれまで17の会社をやりましたが、上手くいったものは2つ位です。運はタイミングです。

では運を付ける方法を教えましょう。それは、風が吹いたら桶屋が儲かるの理論です。風が吹けばホコリが目に入る、すると目が見えなくなる。目が見えなくなると生活するために門付(人家の門口で芸をして金品を乞うこと)をしなければならない。門付には三味線が必要になる、三味線には猫の皮がいる。そして猫が少なくなるとねずみが増える。ねずみは桶の中の穀物を狙って桶をかじる。桶が傷むから桶屋が修理をすることで桶屋が儲かるということでして、今やっていることはいずれ自分に戻ってくると思うのです。

人間にはツキと運があります。ツキは一日早く収穫したから二日後の台風で作物が全滅することが防げたなどということです。
運は、人がもたらしてくれるものです。ホールの技術者も営業をとおっしゃいましたが、営業とは人との付き合いですから、人が必ず運をもたらしてくれます。
そして、会社というのは飛行機と同じです。エンジンやプロペラが止まったら飛行機は落ちます。会社は飛び続けていなければつぶれます。

ボーズ社の話をさせていただきましょう。MIT(マサチュセッツ工科大学)の教授だったボーズ博士が1964年に会社を興しましたが、当初は全く売れなかった。
70年アメリカで製品が認知され71年ヨーロッパで成功し、73年に日本のラックスが代理店になり販売を開始しましたが失敗。
77年、独自で販売を開始したが、日本のマーケットの難しさに苦戦しました。その中で私に白羽の矢が立ちました。そして売るための販売戦略が始まりましたが、なかなか売れませんでした。ある日、営業で電気店を回っていたときに、壁に取り付けられるスピーカはないか? という言葉を聞いて、かつて飲食店を経営したときにスペースの問題で苦労したことを思い出し、スピーカを壁に取り付ける方法を開発したのです。
その後、私はアイデアを次々と出しました。テーブルの上や天井に埋め込むスピーカ等さまざまなものでした。
しかし、アメリカ本社はなかなか動いてくれなかった。しかし、確信を持って自分のアイデアを実行に移し、その姿勢にアメリカ本社も数年後に動き出したのです。

商売はマーケティングですから、いろいろな方法でやり続けることです。営業と技術は車の両輪です。どちらが欠けても駄目です。物が良ければ売れるというのは技術者の考えです。しかし技術だけでは売れません。売るには、売れるだけの価値があることを伝えなければなりません。お客は、こちらの言うことをなかなか信じません。ですから、一生懸命しゃべり続けて、売る人間が相手から信頼してもらえるようになるのです。

そして商売の一番大切なことは、買った人に満足してもらうことです。

(セミナー・指定管理者時代を生きる「求められる劇場技術者の意識改革」から転載)


劇場技術者の声

関 賢栄

 

私たちの世界には、地位が低い、確立されていないと嘆く人が大勢います。しかし、どのようになれば地位が高くなったと思うのかを訊ねても、明確に答えられる人は少ないようです。お金をたくさん取れればいいのか、ポスターに自分の名前が大きく乗ればよいのか、確定申告の職業欄に自分の職種があればよいのか、叙勲の対象になればよいのか・・。

ステータス向上を大きな目標に掲げている本連盟としては、そこが知りたいところであります。
また、プロとはどういうものかと訊ねても同様です。米国では、年収でプロかどうかを判断するという話を聞いたことがあります。英国で仕事をするとき、自分の名前がクレジットされた公演プログラムを持ってこいと言われたこともあります。

オーストリアのマイスター(親方)制度では、マイスターの資格を有した人の中から、劇場の幹部会議で選ばれてマイスターに就任するそうです。
弁護士は弁護士会に所属しないと弁護士活動ができません。能楽師も能楽協会に所属している人がプロとして認められているのです。そこには、不始末をすると、すぐに除名される厳しさもあります。プロには、プロとしての責任が付きまといます。名刺に、○×デザイナーと書けばプロになれる業界でいいのでしょうか。

連盟はまず、虫眼鏡でしか見ることのできない小さな文字でもよいので、スタッフ全員をクレジットしてもらうことから活動します、映画のエンドロールのように。責任が伴うからプロは成長するのです。クレジットは、スタッフの責任を明確するもので、封建的な格付けではないのです。
また、機構操作や美術進行の人たちの能力検定が必要です。もう一度、劇場技術者全体の仕組みを考えて、自分たちだけでなく、すべての劇場スタッフが一つにならないと夢は叶いません。

民衆に夢を売っている私たちが、夢の無い毎日を送っていたのでは、素晴らしい仕事はできません。
誰かが叶えてくれるのを待つのではなく、自分たちの力で掴みましょう。

(日本劇場技術者連盟会報・幕内瓦版創刊号から転載)


音響家に求められるもの

日本音響家協会代表理事/会長

八板 賢二郎

2004年

 

あるベテラン照明家が「明かり(照明)を見ただけで師匠が誰だか分かるんだ。師匠がいないのも分かる」と言っていた。
伝統演劇では、代役をできるほど師匠とそっくりの演技をする役者がいて、発声から仕草まで親子でもないのによく似ている。私もときどき、自分がやっていることが、師匠とそっくりであることに気付きハッとするが、技能の伝承は真似ることが基本ではないかと思う。

私は音響を学ぶ学生たちに、自分で気に入った先輩の真似をすることから始めなさいと、よく言う。真似をし続けて、いつの日か自分の味を付けて先輩を追い越せと助言している。

音響の仕事は、センスが求められる。これは、なかなか教えることができないものである。骨董品や美術品(例のお宝)の偽物を見分けられるようになるには、毎日、毎日、値打ちのある逸品を見せ続け、あるとき贋作を紛れ込ませると見破ることができるらしい。同様に、音響家も一流の演奏を聴き、先端の演劇を見続ければセンスを養うことができるのだと思う。

「人材」を辞書を引くと、才能のある人、役に立つ人とある。人材育成と簡単に言うが、役に立つ才能のある音響家を育てるには、技術セミナーだけでは無理である。また、技能を習得すれば役に立つ人物になるとは限らない。私たちの仕事は、技能だけで通用しない面がある。音響家の仕事は、芸術表現なのだが、演出家や音楽家の代理、または観客の代表という要素がある。それは演出家や音楽家の希望を叶えることであり、観客が納得する音を創造しなければならないからである。そのために音響家は、演出家たちと同次元にいて、彼らに勝る技術的知識と技巧を持ち、さらに観客の心を理解していなければプロとして認めてくれない。

日本音響家協会は、演劇・音楽・放送の音響を創造する芸術家、劇場などの演出空間を設計する技術者の研鑽を目的として設立された。制作現場の音響技術者だけでなく機器設計者から建築家にいたるまで、音響家の環境改善を旗印に大きな枠で集合して、互いに教えあって学ぼうというのが狙いである。

本協会の能力検定対象の音響家技能認定講座は、長年掛けて「師弟の間でもここまでは教えてくれないだろう」と受講生が評するほどのものに仕上がった。この講座は4コースあるが、全編を通して「観客を感動させ、心地よく楽しませる音響家」を目標として指導する。昨年から「サウンドシステムチューナ」の能力検定が加わったが、次は「音環境士(仮称)」の能力検定を計画している。

日本音響家協会は、会員になって事業運営に参加することを、人材育成の一端と考えている。本協会に事務局事務員は存在せず、インターネットを駆使するなどして、すべて全国会員のネットワークで運営している。例えば、会計は北海道の会員が担当し(今年度から宮崎の会員にバトンタッチ)、協会賞を仕切るのは京都の会員である。各種事業は4つの支部と2つのブロックが主催し、機関誌の特集記事の企画編集を支部が順に担当する。それぞれの地域の特徴を生かして、支部の会員のレベルに合わせて自由に事業を展開している。このような形で運営することで、会員は日ごろ体験できない企画・集客・営業・会計・経営・接客などの術を身に付ける。

日本音響家協会は、誰かが作ったメリットを受け取るためでなく、自分でメリットを作りだすために入会していただきたいと考えている。そして、自由闊達な活動をするために、会員の会費と寄付金だけで運営する基本方針を貫いている。

(2004年6月プロサウンド誌から転載)


丹波篠山における裏方ボランティアスタッフ誕生秘話

たんば田園交響ホール参与(元大阪フィルハーモニー交響楽団ヴィオラ奏者)

前川 澄夫

2003年

 

1988年4月17日。完成したばかりの“たんば田園交響ホール”。曲目のメインは当ホールの名にふさわしい交響曲第6番「田園」(ベートーベン)。指揮は名誉館長としてご就任いただいた朝比奈隆氏。わたしも大阪フィルの1メンバーとして忘れがたい感慨の中で演奏したことは言うまでもない。ホール竣工の2年ぐらい前からわたしは朝比奈先生の了解を得た上で設立準備室に出入りをしていた。ホールの建設用地、城下町の景観にふさわしい外観、そして客席については、今後上演されるであろうオペラなどのため、当初の設計図になかったオケピットの必要性などを葛藤をしながら提言をしてきた。

「県を納得させるためには、この町の一等地、つまり町長がおすわりの庁舎の本館を提供すべきです。ホールはやがて篠山の芸術文化の中心地になるわけですから、どうかご決断を・・・」と当時の新家町長に失礼なことまで言ってしまったのも、今となっては少し風化してきて、これで良かったのだと思えるようになった。

私たち地元の住民にとっては数十年の悲願であった生演奏をメインとしたコンサートホールができるという願ってもない夢が実現することになったのであるが、県が建設し、維持管理・運営の一切を町が引き受けるという特殊な形態の中で、財政的にさほど豊かではないこの町がホールを設立してから手直しをすることは困難であるし、さりとて、とってつけたような二流のものは住民の一人として、とても辛抱できるものではなく、とにかく「ほんもの」の創造活動の拠点であることを願っていたのであった。

オケピットを作るなどということは都会の人たちからみれば贅沢この上ない思いあがりに見えただろう。しかし私たちの心のうちには、終戦後の何もない時代に、形ばかりではあったけれども、何か新しい生き方を求めて、音楽では学生を中心にオーケストラをつくり「詩人と農夫」(スッペ)や「カルメン組曲」(ビゼー)そして「美しき青いドナウ」(J.シュトラウス)やコーラス「流浪の民」(シューマン)など小,中,高の空いている講堂を順番待ちをしながらお借りして練習や発表会をひっきりなしに続けた。芝居をする人たちもそれに負けじと「夕鶴」や「三年寝太郎」そして「ドモヌの死」や「夜叉王」と手作りの舞台を繰り広げていた。忘れられないのは、小さな町であったが、どの会場も超満員の客で一人ひとりかけがえのない感動を生んでいたことであった。やがて県立農科大学の学生や一般の人たちも参加して篠山フィルハーモニーのようなものを立ち上げていくことになる。まさしく文化ボランティアの原点が数十年昔の篠山盆地にすでに生成していたことを物語っているのではないだろうか。こういう人たちが丹波の山奥で何かを求めてのびのびと「一文にもならんこと」に力を盡してきたのである。当然、新しくできる文化ホールも、単なる音楽会のみならず、オペラも含めた舞台芸術を通じて市民と舞台が一体化することを念じつづけてきたのであった。

竣工まであと1年くらいになるとホール運営と同時に財政的な裏付けや問題点が生まれ、次から次へと新しい課題を投げかけてくる。2万数千人の町の財源でホールを運営することが大変であることは、当初から覚悟していたことである。まず言えることは、コンサートであれ、芝居であれ、その根幹を技術的側面から見れば、舞台・照明・音響の技術スタッフの存在は不可欠なものであることは言うまでもない。また、それが素晴らしい感性に裏打ちされたものであるべきことは勿論である。

既存のホールにきいてみると、プロのオペレーターの日当は当時2万から3万だそうだ。芝居などの舞台なら、舞台づくりからG.Pも含め二日かけるとすると、延べ20人前後のスタッフを呼ぶことになり数十万はかかる。しかも聞くところによると年間を通じてのプロのスタッフとの契約金が必要とすれば、ホールの管理運営費の半額近くがそちらに流れてしまうことになる。

プロの出演者たちは自前でスタッフをつれてくるけれども、地域の文化サークルの人たちが待ち望んだ舞台へあがるには予算面から見ても、ものつくりへの意欲を削ぐことは必定だ。

当時の係長の向井氏は大学時代、京都で行われた高石ともやや永六輔が主宰する「宵々山コンサート」における舞台づくりを経験したあつい感動を饒舌に語りつづける。わたしは話を聞きながら舞台の裏方というものがこんなあつい情熱でことにあたっていること、これはうまい下手よりもすごい創造活動以外の何ものでもないと思った。そして予算内で自前のオペレーターを養成することが可能かどうかを県側と地元から任命されている運営委員会に図った。「ホールは一流なのにオペレーターは素人ではだめ」とあるホールの館長からきびしく反論されたこともあった。それでもわたしたちは数十年にわたって夢づくり、ものづくり、芝居づくりへの情熱を持続してきた地域の人々の思いの重さを忘れることはできなかった。

財源がないことが確実な今、ホールが住民に対してなし得ることはなにか。わたくしたちはまず、よりよい舞台を作るという情熱を持った市民に声をかけること。次にはプロに一歩一歩近づいていくためには、その道のエキスパートを招いて厳しい研修以外に道はないという結論になったのである。こうして、ホールの開館に先駆けてステージオペレーター養成講座をスタートしたのであった。

講座は舞台・照明・音響の機器操作を基本として、専門用語や舞台製作の基礎知識を週一回、全15回(三ヶ月)学ぶのである。修了後はホールの専門職員がチーフをつとめている舞台・照明・音響の部門の一つを選択して、はれて裏方集団「ステージオペレータークラブ」に入会するのである。

講座終了した後も当然、現在にいたるまで各部門に分かれて研修を一ヵ月に一度は行っているのである。
当時一期生(1988)の卒業生は58名、以後二年に一度の割合で開講され、2003年度4月現在、ステージオペーレータークラブは約90名である。
ホールがオープンして3年目、ステージオペレータークラブは初の市民オペラ・喜歌劇「こうもり」(J.シュトラウス)の舞台制作に挑戦、翌々年には「魔笛」(モーツァルト)、さらにその3年後には「フィガロの結婚」(モーツァルト)と創り上げていった。これらはすべて全幕上演をし、歌手はオーディション、オーケストラは終戦直後から名称を変えながらも持続してきた地元のオーケストラがオケピットへ入った本格的なものであった。その後、ミュージカルでは「オズの魔法使い」(バウム)そして本年度は「森は生きている」(マルシャーク)の篠山版と、今まで申し上げた公演の舞台はすべてステージオペレータークラブの協力によって評判を呼んだものである。さらにその他にも、15年間にわたり、ホールの貸し館業務はもちろん、野外コンサートや自主イベント等を多数創作しつづけている。

少なくとも「舞台はプロが使うもの、素人はだめ」とお叱りを受けた10数年前を思うとき、そこにはプロ集団では創造したり発信することができない独自の美学が創造されてきたことの証をみるのである。

ところで当ホールが竣工して15年たつことになるが、100名近いクラブに増えるとは夢にもおもわなかった。むしろ大失敗をやらかして、反論された方々に嘲笑されるであろうと覚悟していた。けれども2期生、3期生と募集するうちに、今度は舞台に出演されている地元の方々が、更に良い舞台にしようと裏方の技術を学ぶためスタッフとして参加されだしたのである。そして舞台で学んだ技術だけではなく、裏方の苦労をも感じ取り、自分たちの公演に還元されたのである。当初予想もしていなかったこの相乗効果による伸びやかな状況に接し、オペレータークラブの高いレベルアップを信じたのである。しかも遠い地域や、老若男女、多様な職種の人達が持ちよるノウハウは舞台製作や人と人とのつながりを緊密にし、活性化してきたことは云うまでもないと思う。篠山に数十年間生きてきた私たちにとって、最初に申し上げた終戦直後からの地域の人々の文化活動が、いつのまにか地味といっていいのか、そういう風土の上に、舞台創りはイコール人創りというあり方をつくりあげたと信じているのである。

(日本音響家協会機関誌35thから転載)


ボランティアってすごい!

富山県高岡文化ホール

山本 広志

2002年

 

富山県では、文化施設で活動するボランティアの推進が県の文化施策として実施されています。
その活動がより活発に推進されるようボランティアの成果発表会と交流会が先般、黒部市の黒部国際文化センター「コラーレ」で催されました。県内から役40名のボランティアや関係者が集いました。

成果発表は、地元で活躍してるロックグループ「ありがたや」の1時間ライブ。音響、照明の搬入、仕込み、オペレータのほとんどをボランティアが運営していました。その内容といえば、決してアマチュアの域ではなく、結構しっかりした技術でレスポンスも高いレベル。
ライブが終わると、意見交換会が行われました。コラーレでは、開館以来、地域と共同でイベントを展開し、地域と密着した活動を目指しており、今年7年目を迎え、ますますその効果が現れていました。

ホールボランティアといえば、すぐに舞台、音響、照明などの支援やコンサートの受付、会場案内を連想しますが、「コラーレ」においてはそれ以外に、企画、広報活動また、ロビーを生け花で飾ったり、ケータリングを含めた楽屋廻りのお世話の域まで及んでいます。

ボランティアの方から、「ホールに足を運んでいただいた人々が気持ちよく過ごしてくれることが何よりのやりがいです。」というお話には、専任スタッフ同様のサービス精神を持ちながら携わっていることにとても感心しました。また、ホールの使用制限は、条例や規則で定めているのでしょうが、ボランティアの関わるコンサート事業でリハーサルを21時から朝の5時までスタッフと一緒に取り組んだとか、ホールの広報誌をボランティアが取り組んでいるなど、ボランティアがホールの運営の一翼を確かに担っていました。

今後時代の流れと共に文化ボランティアの活動が活発になってくるとすれば、この文化に情熱をもった人々と接していく我々ホールスタッフとしては、しっかりとしたスタンスを持って業務に取り組まなければならないと実感した1日でした。

(日本音響家協会北日本ブロック会報から転載)


ナイチンゲールの言葉は、私たちにも通じる

宮崎県芸術劇場

鎌田 晶博

2001年

 

私は今(音響の)現場を離れ看護大学の事務局におります。ここはご推察のとおり女の園で、学生、教職員合わせて520人中男性はわずか58名。我々少数民族は、ことあるたびにこき使われています。

ここで一番元気がよいのは学長です。お歳は70ちょっと前で背も小さな女性ですが、かくしゃくとしており何事にも積極的です。このお歳で老眼鏡も使わず次から次へと新たな指示が飛びます。おまけに食欲も旺盛で、先日一緒に食事したとき私よりも食べられるのでびっくりしました。そういえばどこでもお師匠さまと呼ばれる方々が一番元気ですよね。

この学長はナイチンゲール(近代看護の創始者)の研究者でもあります。そのナイチンゲールの言葉で、我々は3つの関心を持たねばならない。第一は知的な関心(知識への関心)、第2は人間的な関心(相手の状況を理解し察する豊かな感性)、第3は技術的関心(具体的に問題点を把握し解決の方向を探っていく筋道を理論的に考える力)というのがあります。

100年前の人の言葉ですが我々の業界にも通じるものがあります。専門的知識と技術力を追求するのはもちろんですが、お客様の要求を察する感性とそれを解決する方法を考えられる論理的能力は同じですね。言われたことをするだけではなく、積極的にサポートして行くことにより、より良い舞台を作り上げていくことが求められているのではないでしょうか。

看護業界が100年前から始めようやく認められて来ていることをみると、今我々も積極的に行動して行かねばならないのはないでしょうか。
最後に、これもナイチンゲールの言葉です。

「日々進歩がなければ退歩しているに等しい。組織としてもっとも肝心なのは他者の仕事のじゃまをしないで、それを助けつつ自分の仕事を遂行すること。自分の面倒をみられない人に他人の面倒をみられるはずがない。自分の“ありたい姿”を見つめて新たに出発しなさい。」

(2001年日本音響家協会機関誌27thから転載)


21世紀を見据えて

日本音響家協会代表理事/会長

八板賢二郎

2001年

 

日本音響家協会は、演劇、音楽、放送などの音響を創造する芸術家と、劇場、ホールなどを設計する技術者の非営利団体として、1977年に設立されました。設立以来、すべての事業を会員のボランティアで行う方針を貫いています。また、会員の自立心を高めるために、団体参加と会社ぐるみの参加を認めず、個人の意思で参加した会員だけで構成しています。会の運営は、会費だけで賄っているので誰からも制約を受けることなく、自由闊達な活動を行うことができます。この運営方針を貫くためには、事務所と事務員は設けず、本部のパソコンを核にしてITを駆使し、理事会、委員会、会員管理、雑誌編集、座談会、告知などをインターネット上で行って、大切な会費を無駄なく運用しています。
さて、私たちの21世紀のテーマは、経済不況とデジタル技術の進歩の波に、いかに乗るかです。不況は、バブリー時代の軽薄な音響家に反省と研究を促し、本物のプロを育ててくれる絶好のチャンスです。

デジタル技術の進歩は、プロとノンプロの境界をなくしています。音響機器の性能を追及するだけでは、もはやプロとして認められないのです。機器は代価を払えば自分のものになりますが、創造する能力は金銭で買うことはできません。この創造する能力を身に付けないとプロとして認められないのです。最近では、音楽家がサウンドデザインをしたり効果音も作ります。これからは「貴方は音響家として、ミュージシャンや俳優の表現力と芸術性に勝るものを身に付けていますか」という問に、どう答えられるかがプロのハードルになります。

今年の5月から、ロンドンで日本文化を紹介するイベントが開催されています。このイベントは1991年にも開催されました。今回の予算は1991年の1/4にも満たないのですが、規模は前回を上回るといわれています。これはイギリスのボランティアの協力があるからです。

日本では、ボランティアが舞台技術をサポートしている劇場やホールが増加しています。今後は、さらに拍車がかかると思います。ボランティアは、作品製作に参加することが目的ですから、外来のスタッフに対して偏見を抱かないため親切で協力的です。とは言っても、ボランティアのサポート制度を採用するには、責任と安全の面から、ボランティアを上手に指導し、リードできる高度な技術を身に付けたプロのスタッフが不可欠です。そして、ボランティアもプロの技を身に付けなければ通用しません。このようになると当然、プロの音響家の能力が問われ、少数精鋭の時代になると思われます。以上のようなことを見据えて、日本音響家協会は、プロとしての値打ちを高めるための教育を、21世紀初めの目標に掲げています。

(2001年プロサウンド誌から転載)