音と人間との闘いに生きる

若林 駿介

日本音響家協会名誉会長

1970年からYAMAHA世界音楽祭の音響プロデューサーをつとめた若林駿介氏の奮闘が書かれた雑誌を発見した。この内容は、現在も通用する音響技術者の基本を語っています。これは、まさに音響家のバイブルです。


華やかなスポットライトを浴びて次々に登場する歌手、作曲家。巨大なドーム天井に反射する拍手の波。

11月25日(1971年)から三日間、東京・九段の日本武道館は異様な雰囲気に包まれた。ヘーシンクと神永昭夫が祖国の名誉をかけて戦い、ファイティング原田が血と汗を流した同じ場所で、ドラムが刻むリズムにのってストリングスが愛と平和を語る。歌、拍手、歓声。38ヶ国、46曲のエントリーによる第2回世界歌謡祭の開幕だ。

真紅やブルーのライトに映えるステージの下手、観客の視線がとぎれるエアーポケットのような薄暗闘のスタッフ席で、ひとりの男が受話器を握る。『下手のスピーカの音が少し小さいからな。ちょっと大きくしてみて・・・うん、それでいいでしょう・・』

若林駿介、41歳。世界歌謡祭のチーフ・オーディオ・プロデューサーである。50本をこえるマイクの林や、それを上まわるスピーカの群をコントロールする責任者である。音響条件が最悪との評が高い武道館で、そのハンディを見事に乗り越えたこの人の歩みは、戦争期の勤労動員に始まる。日本無線に配属され、真空管の試験室の仕事をするうちに電気理論を叩き込まれた。戦後、中央大学の工学部で電気音響をマスターした若林氏は文化放送に入社、ミクサーとしての第一歩を踏みだした。

『当時の放送局は生放送ばかりでねえ、ミクサーなんか5、6人しかいなくて、みんな手探りで録音、放送していたんですよ。ところが5年ほどしましたら、ミクサーとしての自信をなくしちゃってね。ミクシングというものが何か全然分からなくなっちゃったんですね。それで文化放送を休職して、アメリカに行けば何かあると思っていったんです。そうしたら、あったんだなぁ』

ハリウッドに近いコロンビア・カレッジで音楽美学、演奏論、作曲法を学び、併せてカリフォルニア大学電気音響研究室で楽器音響を研究してマスター・オブ・アーツの学位をとった彼は、当時のCBSでブルーノ・ワルター全集をプロデュースしていたジョン・マックローアと共に仕事をして、ミクサーとしての自信を回復したそうである。若林氏は愛用のセブンスターに火をつけながら、おのれ自身との苦闘の時代を懐かしそうに語る。

『電気は分かっていたけれど、音源、つまり生の音楽の本質が分からなかったんですね。その点、外国のプロデューサーやミクサーは音楽をよく知っていました。僕は音に神経を集中していて音源を忘れていたんです。マックローアがマルターと負けずに音楽制作論争をしているのを見てハッと気付いたんです。音は物理でしょ。聴覚は人間の感覚ですよね。その間に介在する音の総体が芸術だ。ならば芸術を、エレクトロニック・メディアを媒介として、感覚・人間に結びつけるのがオーディオで、それをコントロールするのがオーディオ・テクニシャンです。その技術者が芸術と人間を忘れたら、オーディオじゃなくなっちゃいますよね』

音と人間との闘いに生きる若林駿介にとって、世界歌謡祭は数々の問題点が集約された格好の試練の場であったようだ。広大な会場のため、大きな組織を編成して音響設計をしなければならず、しかもPAをいかに優秀なものにしていくかという基本的宿命が掲げられている。その際、彼が第一に心がけたのは、生の音楽を最高の音で拡声し観客に伝達することであった。若林駿介スタッフ(若林氏を含めて3人)と日本楽器(ヤマハ)電気音響研究室スタッフとの真剣な討論が何日もたれた。第1回の歌謡祭で出た問題点は、8月下旬のネム・ジャズ・インからポピュラー・フェスティバル、作曲コンクール、エレクトーン・コンクールの音響効果を通じて改善され、さらに何日も武道館を借りきって音響測定をくりかえし、解決していった。そしてその間『音と人間』をテーマにした話し合いを何度かもって、世界歌謡祭の音響性格をスタッフ個々にさせていったのである。構成・演出の藤田敏雄氏、音楽プロデューサーの東海林修、いずみたく、中村八大、服部克久氏らとのミーティングももたれ、本番の日が迫る。アリーナ席中央、審査員席のすぐ後に、PAセクションのブースが設置された。これで観客と同じ条件で音がモニターできる。さあリハーサルだ。

◎24日(水)オーケストラ音だし、スピーカのバランス・チェック。深夜までゲネプロ。スタッフ一同にやや疲れがみえるが、まだまだ体力、気力ともに充分。

◎25日(木)本番第1日目、順調だが、オーケストラのバランスが気になる。ブラスセクション側の観客にはストリングスの音がやや弱い。ストリングス側の観客にも同じようにブラスの音がやや弱い。明日はスピーカを増やして音のバランスをちょっと変えてみよう。

◎26日(金)すべて順調。バランスも良くなった。眠くなる余裕がでてきた。

◎27日(土)すべて終了・・・。

グランプリ決定の瞬間の興奮を残して大観衆が消えた後、若林スタッフは声もなくPAブースに坐っていた。戦争のようなこの一週間、常に笑顔を絶やさなかった若者達も妙にシンとしている。『やっと終わったね』という若林氏の声で笑顔がもどる。何ケ月もの準備と努力が結実した喜びの笑顔だ。計画がいかに完璧に達成されても、受賞した歌手の何十分の一の拍手さえももらえぬ男達には、満足感と虚脱感とは同時にやってくるものなのかもしれない。

若いスタッフたちは、若林氏についてこう語っていた。

『若林さんは、気さくに質問ができて、文句も言える人なんです。何でも良く聞いてくれて、真剣に考え回答してくれる。本質的に優しい人なんですね。だけど仕事にはすごく厳しい。VUメーターなんか見て録音しているとテープ貼られちゃうんですよ。一緒に仕事して何でも教わりたいなと思うんです。ミクシングという仕事に信念をもっているし、音楽を知っている人でしょ。魅力ありますね』

その若林氏は、歌謡祭の最終日、音のバランスをみにのぼった暗い3階席の隅で、しみじみと話してくれた。

『フリーのミクサーとして、こういう仕事をやらせてもらえるのは、本当に有難いことだと思います。インターナショナルなコンテストだし、全ての歌い手の表現を最高の音で出さなくてはならない。これはすごく大変なんだけれど、やりがいのある厳しい仕事なんです。若い人が技術を身につけるには絶好の機会ですよ。それにぼく個人としても、こういう政治や経済をこえて音楽の喜びを共有しようというテーマの催しには、全く賛成です。長く続けたいですね』

ミクシングとは孤独な作業である。組織のなかでしなくてはならないが、信頼できるのは自分の耳と指。かといって演奏が悪ければどんなに良い音を出しても仕事は評価されない。若林氏は日本ではまだミクシング理論も、ミクサーの社会的地位も確立されていないと断言する。演奏(=音楽)と音響を総合的に考察し、具現化するミクサーがいないと言うのである。アメリカ留学から帰って文化放送に復帰したが、まもなくテレビ・プロデューサーへの誘いを断り、また管理職になると音の現場から離れなくてはならぬと退社して、フリーの純粋な音の世界を選ぶことになった。彼はいま各種のミクシングやレコードの録音評など手がけるほか、【音楽はどう伝わっていくか】という伝達理論に意欲的に取り組んでいる。

そして静かに、全く柔らかい調子でさりげなく語るのだ。『ミクサーの年齢は年々若くなっていますが、ぼく自身は50代にならないと、外国に伍した音楽をつくれないと思うんです。音楽は単なる音でなく、人間そのものなんですからね』


(1971年世界歌謡祭から)