音響の仕事は情熱が大事

若手音響家が若林駿介氏にインタビュー

2007年収録

コロンビア単科大学大学院卒。アメリカでブルーノ・ワルター晩年の録音に関与しました。帰国後、数々の日本のクラシック録音に従事し、ステレオ録音の基礎を築きました。

放送では文化放送時代における旧日本フィルに代表される数多くの放送番組収録をはじめとして、普門館でのカラヤン/ベルリン・フィルの収録など、ステージ音響の分野では70年の大阪万博の鉄鋼館や武道館における世界歌謡祭の音響監督を担当するなど、数々の音楽音響の新分野を開拓。

朝日新聞をはじめ音楽雑誌等で録音評を担当するなど、オーディオ評論家としても活躍。

また東京藝術大学や九州芸術工科大学において、または日本音響家協会初代会長として後進の育成にあたり、後に日本音響家協会名誉会長。

2008年7月1日逝去、享年78歳。


山田智子 私は、栃木県総合文化センターでホールの舞台管理で音響を担当しております。どちらかというと全体的な催し物の運営、進行をやっております。本日は、よろしくお願いいたします。それでは、まず最初にお聞きしたいのは、若林さんが、このお仕事をするきっかけとなったのは、どのようなことから音響の世界に入ったのでしょうか?

若林駿介 やはり、音が好きだったことと、音楽が好きだったことですね。その辺からでしょうかね。コンサートとか、レコードとか、今の時代はCDですが、そういうのを聴くことが好きでした。

山田 そうですか。やはり、そういったことがきっかけで、音響のお仕事を始められたということですが、実際に今まで、お仕事をされていて、たとえば、20代から30代のころで、ご自身での中で、この年代が一番充実していた、楽しかったという時期、または、こんな無謀なことをしてしまったというようなエピソードがあったらお聞かせください。

若林 私は最初、文化放送に入社しまして、そこに10数年おりまして、その後、独立してフリーなりました。

山田 フリーになったのはおいくつのときですか?

若林 34歳のときですね。

山田 フリーになったきっかけはどのようなことでしたか?

若林 当時、文化放送に勤務していましたが、組織に入っていますと、だんだんと年数が経つにつれて役職がついていって、あるとき、部長になってくれといわれたのですね。だけど、部長になると現場の仕事ができなくなっちゃうんですよね。それで、それは勘弁してくれといって辞めちゃいました。

山田 それは、唐突でしたね。そのころは、ご家庭を持ってらっしゃったのではないですか?

若林 えー、ちょうど、結婚したときです。

山田 それはすごい、チャレンジャーですね。

若林 ちょうど、結婚した時期と同じでしたから、みんなから、どうしたの?っていわれましたよ。

山田 すごいですね。それから、アメリカへ行かれたのですか?

若林 いえ、アメリカに行ったのは、文化放送にいたときです、2年ほど休職にしてもらい行きました。あのころは、アメリカがリーダーシップを取っていましたから。

山田 ぜひ、アメリカに行かれたときのことを、お聞かせください。

 

アメリカでの修業

若林 アメリカでは、レコード会社のスタジオとテレビ局に行きました。

山田 アメリカで苦労されたこととかはありますか?

若林 ありましたね。まず、一番苦労したのがやはり言葉ですね。普通の英語の勉強はしていきましたけど、やはり、苦労しましたね。ただし、音響用語はみな英語でしたから、それは助かりました。音響用語は、どこへ行っても英語ですからね。

山田 そのころアメリカのユニオンはどうだったのですか?

若林 ユニオンは強烈でしたね。厳しかった。だけど、僕はもぐりでね、でも、良い先生がいたので、その先生に頼んじゃいましたね。でも、ユニオンのメンバーにはしてもらえなかったです。

山田 アメリカのユニオンというものは日本にある組合とは形態とか、やはり違いますか?

若林 あの形は、日本で作ることができませんね。まず、国民性が違いますし、規則とかが徹底しているのですね。

山田 ということは、ストライキとか春闘みたいなものがあるのですか?

若林 そういうことよりも、仕事自身、系統がしっかりとしていますね。

山田 ということは、専門の仕事がきちんとしているのですね。ケーブルを張る人はケーブルの人、マイクを立てるのはマイクの人、ミキシングは、ミキシングの人ということですね。

若林 そういうことですね。

山田 その中で、若林さんはどのような勉強をなされたのですか?

若林 レコードの録音をしました。ただし、ユニオンがあるので、手出しはできなかった。調整卓に触ることはできませんでしたが、そこで勉強しました。調整卓に関係してない人が触ると罰金を取られたりするんです。

山田 そうなんですか。

若林 そのぐらい徹底していましたね、ユニオンは。ミキサーがマイクを触ってはいけないのです。日本では考えられないことです。

山田 そうですね、日本の組合とは違いますね。

若林 日本のように、協定で給料を決めようなんてこととは根本的に違います。人の仕事に手を出してはいけないのです。

山田 日本では、どうしても手を出してしまうこととかがよくありますよね。

若林 我慢ですね、そうしないように我慢。

 

その頃の日本

山田 まさに、その一言ですね。その後、そのミキシング技術をアメリカで習得していらして、日本へ帰国して、さあやろう!と思ったとき、日本には機材とかが揃っていたのですか?

若林 その当時、機材はほとんど日本へ入ってきていましたね。それから、マイクなどは、一部、日本のほうがよいものを作っていました。

山田 当時、気に入っている、これだったらずっと使っていてよい、というようなマイクはあったのですか?

若林 ありましたよ。ノイマンとか、ソニーとかね。ソニーのマイクで、C-37Bというのがあるのですが、これは、僕が文化放送にいたときにソニーの技術屋さんと共同で開発したんですよ。真空管のマイクでね。当時、夜中に文化放送にソニーの技術屋さんが試作のマイクを持ってくるのですよ。それで、一緒にそのマイクを使ってみて、ここはこうしてみたほうがよいとか、この音は硬いとか、もう少しこうしたほうがよいとか、いろいろやるのです。そうすると、彼が直してきて、また翌日試してみたりと、そうやって開発したのですね。それで、アメリカに行ったとき、なんとアメリカでも、そのマイクを使っていたのです。びっくりしましたね。アメリカでは、結構、日本のマイクを使っているんです。

山田 その当時、日本のレコード業界というのはどのような感じだったのですか?

若林 そのころは、レコード業界というものは、まだ未熟でしたね。レコード会社も力がなかったですから。

 

その後のご活躍

山田 当時、リーダー的な立場で、仕事をされていたわけですよね。しかもフリーで。

若林 そうですね。

山田 フリーで活躍していらして、メリット、デメリットはありましたか?

若林 そうですね、まず、一人だとお金がないですからね、その辺は苦労しましたね。サラリーマンなら、決まった給料をもらえますけど、そういうわけにはいかないですからね。自分でこつこつ働いて、自分でこつこつお金をためていかなければならない。そういう苦労はありましたね。当時、何もなかったので、エンジニアとしての地位を確立していくための、そういう苦労はありましたね。

山田 やはり新しい仕事だったので、先駆者として人に認めてもらわないとお金が入らないということだったのですね。

八板賢二郎 40年も前、日比谷公会堂でダークダックスのコンサートをやられたとき、若林さんのことが新聞に出ていたんです。グラフィックイコライザを駆使してとてもよい音にした、というコラムがでていたのです。

若林 そのようなこともありましたね。ダークダックスはですね、メンバーの喜早 哲さんが中学の同級生なのですよ。それで彼が、「おい、お前、アメリカで勉強してきたんだから、我々ダークダックスの音をよくしてくれよ」といわれましてね。よし、それでは一肌脱ぐかということで、「そんな発声じゃ駄目だよ」、「声が出ていないじゃない」、などといいましてね。

八板 そのときの新聞記事を見て、私は若林さんのことを知ったのです。それがきっかけで、その後いろいろとお願いをするようになりました。私がまだ20歳そこそこのときでした。

若林 録音に携わる人が新聞に取り上げられるなんていうのは当時、たいへん珍しかったですよ。

山田 そのように、新聞に取り上げられたことによって、反響はありましたか?

若林 それは、ずいぶんといろいろな方が問合せてきました。

八板 私は、こういう人になろうと目標にしました。

山田 やはり20代、30代で、活躍している先輩をみられるということは、すごくありがたいことですね。

若林 やはり、目標があるということはよいことですね。今は目標がまったくない人がいっぱいいるでしょ。それは、だめですね。あの人のようになりたい、というようになってほしいですね。

山田 そうですね。

八板 若林さんは、自分の考えがぶれない人なんです。筋を通さないと怒られちゃいますよ。

若林 まあ、そうでしょうかね。

山田 すばらしいですね。では、1本筋が通っている若林さんから、これからの若い音響家の人たちが、どう育っていってほしいと思っていらっしゃいますか?

若林 当時、僕は放送局にいたでしょ。それで、アメリカから帰ってきて思ったことは、ラジオとテレビはいろいろと知り合いがいてコンタクトがありましたし、頑張っていました。レコードも映画も頑張っていました。それで、一番元気がなかったのが、ホール関係でした。その中で、八板さんは、すごく熱心に食らいついてきた。それが一番よいのですよ。若い人は、そうじゃなきゃだめですよ。食らいつかなきゃ。

八板 協会作るとき、面識のない若林さんのところにお電話をしたんです。「会長をやってください」ってね。

山田 そうなんですか。すごいですね。

若林 そんなこともありましたね。

八板 そしたら快く、やりましょう。とおっしゃってくれたんです。

若林 情熱に打たれてね。頼もしいと思いました。

山田 すごい。

八板 堂々と正面から依頼しました。

山田 お願いします!ってですね。

若林 情熱に打たれました。

山田 すばらしい。

 

粗末な音響機器時代のミクシング

八板 ところで、若林さんがミキシングをやられたころは、調整卓は丸いツマミでしたよね。AMPEXの4チャンネル。

若林 そうでしたね。イコライザもなかったし、エコーもありませんでした。

八板 それでも、すばらしいミキシングができてしてしまうのですね。

若林 イコライジングはマイクロフォンの選定と立て方です。物がない時代のほうが、心あたたまる音が録れましたね。音に心が入るんですよ。

山田 よりいいものを作ろうという気になるんですね。

八板 ですから、機材じゃないってことなのでしょうね。もちろん、よい機材に越したことはないですが。

若林 使い方と情熱ですよ。

山田 情熱、何度聞いてもいい言葉ですね。

八板 若林さん、昔おっしゃっていましたよ。マイクを立てたらマイクに願をかけろって。「頼むよっ」って願をかけたらよく録れるんだって。

若林 そうでしたね、そういうものですよ、音ってものは。

山田 やはり、情熱は大事ですね。

若林 それから、情熱を燃やすには、理論を知らないとできませんね。みようみまねだけではだめです。このマイクはどうやってできているとか、勉強しなきゃだめですね。

八板 やはり理論を語れる人が認められますよね。

若林 そういうことです。やはり、できる人は理論を言えます。

八板 今、流行だからとか、この機材がないから駄目とかいう人は、駄目な人ですと昔、若林さんがそうおっしゃった。

若林 あのころ、そういうことを言う人はいなかったですね。

 

音響の黎明期を創造する

山田 今は何でも、デジタル、デジタルとなってきてしまっていますが、大切なものは心ですね。

若林 今は機械がよくなったので、誰でも録音できてしまうのですね。どうにか、60点、70点の音が録れてしまうので、それがよくないのです。

山田 今は、誰でも簡単に録音できてしまいますね。

若林 やはり、音は耳で聴いて作っていかなければいけないです。

八板 だから、今はとびぬけてよい人物が出ません。スターが出ませんね。何もない時代は技が必要でした。技と機械の性能や癖を知らないとできなかったのです。それをみごとに使いこなしたのが若林さんです。

山田 すばらしいですね。それで、先ほどの日本音響家協会設立の話に戻るのですが、若林さんは、10年ほど会長をなさっていましたが、設立当初どのように思っていましたでしょうか?

若林 先ほども話しましたが、当時、ホール関係がよくなかったのですね。他から比べて遅れていたのです。それで、これではいけないと思っていた矢先に八板さんから連絡がはいったのです。彼の情熱にびっくりしましてね、うれしくて、一緒にやることになったんです。

山田 ホールの音響をよくするために、実際どのようなことをなさったのですか?

若林 その時代は、舞台とか放送とか、あまり垣根がなかったですのです。それで、放送の人たちが、ホールの音響をやったり、芝居の効果音も放送局の効果さんがやったりしていましたので、あまり垣根はなかったですね。交流することで技術向上をしていったのです。

八板 それから文化庁の技術セミナーもやりましたね。実は、文化庁の技術セミナーの初回は私が計画したのです。27歳のときです。そこで、若林さんにも講師をお願いしました。そのとき初めてお会いしたのです。

若林 そうでしたね。

八板 音響の大御所ばかりを集めて、第1回公立文化施設職員技術研修会というのをやったのです。そのとき立派な教科書を作成しました。プロが作った舞台音響の本としては、初めてだったと思います。

若林 今でも、その本を持っていまいすよ。今でも十分通用しますね。

山田 その本は、今でも発刊しているのですか?

八板 限定版でしたから今はありません。

若林 いろいろやりましたね、あのころは。討論会とか、セミナーとか。

八板 そうでしたね。

若林 その後、徐々に舞台の仕事が専門的になっていきました。

八板 我々がこの世界に入ったころは、ホールの技術職員はまだまだ本当の勉強をしてないという感じでした。みようみまねでやっていたという感じでした。

山田 そのころと、現在では、放送とか舞台との垣根の高さは違いますか?

若林 そうですね、今は昔より交流が少なくなってきたのではないでしょうか。

 

師弟関係の必要性

八板 昔は放送の人たちと舞台の人たちは仲がよかったですね。垣根なしで助けあっていましたから、音響家協会には放送の人たちもたくさんいます。

若林 よい時代でした。今は、縦割りになってしまいました。横のつながりがなくなってしまいました。それから、師弟関係もなくなりました。

八板 私は、師弟関係はよいと思っています。次世代に伝承していくことはよいことですよ。

若林 そうですね、引き継いでいかないといけません。当時から、そういうムードが、音響家協会の中にあればよいなという感じでやっていましたよ。会員はみんな師弟関係、何でも教えてしまおうという雰囲気でやっていました。

山田 それは、今でもありますね。

若林 それでよいのです。そうでなければいけないのです。私は、昔から、協会員は全員が運営委員のつもりで、と言い続けていました。

山田 なるほど。

八板 それは今でも語り継がれています。隔たりができてはいけないということでして、初代会長の名言です。

山田 名言集がほしいですね。ところで、学校で、まだ教えられてらっしゃるのですか?

若林 時々、行ってますよ。音響芸術専門学校と、九州芸術工科大学ですね。その教え子たちが、音響の第一線で活躍してくれています。

山田 きちんとみなさん、教えを伝承してらっしゃるのですね。

八板 門下の方々がたくさん活躍してらっしゃいますが、共通していえることは、みなさん筋を通すということです。

山田 みなさん、ほんとうにすごいですね。最後に、いま、若林さんは音の仕事を長年やってきて、どのように感じてられいますでしょうか。

若林 この仕事しかできませんが、いい仕事ですよ。いい音を聴くとほっとしますね。人を癒す仕事ですからね。

山田 いいですね、最高ですね。たいへん貴重なお話を聞かせていただきまして、ありがとうございました。


インタビュー:山田智子、サポータ:八板賢二郎、文責:中野雅也